【 ヨハネの黙示録 1章1節~20節 】 vol.3
(教会でいただいたメッセージプリントを抜粋・引用しながら綴っています)
ヨハネは現在のトルコ半島の西海岸に浮かぶ
パトモス島に島流しになっていた。
『 私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり
あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と
忍耐とにあずかっている者であって
神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた』(1:9)
ただただ、福音のため。
「島流し」、と聞けば、何となく悲惨なイメージがあるけれど
ヨハネの綴った言葉を読むと
むしろ、その誇りと喜びさえ伝わってくる。
一体、どれほどの信仰であり
また、どれほど豊かな主との交わりの時間だったことか、と思う。
『 私は、主の日に御霊に感じ
私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた』 (1:10)
「主の日」とは、日曜日のこと。
初代教会の頃から、クリスチャンの間では
ユダヤ教の安息日の土曜日ではなく
イエス様が復活された日曜日を主日として礼拝が捧げられていた。
The Lord's Day、主の日。
ヨハネもその島で、「教会」はなくても
そして何より、どんなに厳しい状況の中にあっても
「主の日」 を覚えて、礼拝を捧げていた。
たったひとりで捧げる礼拝、とはいえ
まさに三位一体なる神様との交わり。
ヨハネが心を主に向けた時、どんなにか深く
主は、ご自身の交わりの中に、ヨハネを招き入れられたのだろうか。
主の日に御霊に感じ・・・という件を読んで
あ!そうか、と思った。
「ヨハネの黙示録」 は、まさに主日礼拝の中で
ヨハネを通して与えられたものだったのか、と。イマサラナガラ デスガ…
黙示録には、彼がそこで見聞きしたことが綴られていく。
ヨハネが主に心を向けると、後から、ラッパの音のような
はっきりわかる大きな声が聞こえてきた。
その声が語ったことは
「7つの教会に、これから見ることを記し
書簡を送るように」、ということ。
(ちょいと、アレ?と思ったんだけど
…地上においては3年間、ヨハネも親しく
そして身近で聞き慣れてきたイエス様の御声、だろうに
やっぱり、天の御国においては、世のものとは違うんだろうね )
そして、ヨハネが振り向いて、まず見たものは、7つの金の燭台。
20節において、それが 「それぞれの教会を表すもの」 と
その声自身が、解き明かしている。
7つの燭台の「真中」に、イエス様がおられた!
これは、教会がイエス様にいつも守られているということ。
そして、明かされた、天の御国でのイエス様のお姿。。。
・ 足までたれた衣を着て、金の帯を締め
イエス様独自の威厳を表す服装
・ 羊毛や雪のような頭と髪の白さ
イエス様の無罪性を表すもの
・ 燃える炎のような目
救いのわざに対する熱意と、罪を燃やし尽くす力
・ 足は光り輝くしんちゅうのよう
何物にも損なわれない、力強い歩み
・ 大水の音のような声
イエス様の語る御言葉は神のみことばゆえに
それは権威があり、その御言葉の前では
大水を前にした時のように、何ものも逃れることは出来ない
・ 7つの星を持つ右手
7つの星とは、教会の御使いたちを表す(1:20)
つまり、それぞれの教会には、御使いが遣わされているということ
・ 口から出ている鋭い両刃の剣
御言葉は両刃の剣、というその表現は意味が深く
ただ鋭い、力がある、というばかりでなく
御言葉を正しく使わなければ、自らも損なう、という意味が読み取れる
その剣は「両刃」ゆえ、敵には勿論、刃は向いているが
同時に、自分の方にも刃が向いている。
誤った使い方をすれば、自分が傷つく。
・ 強く照り輝く太陽のような顔
神様のご栄光の表れ
今はまだ、この書物に記されたことを通してしか
イエスさまのお姿のイメージを描くことが出来ないけれど
ヨハネが見たイエス様のお姿の具体性を通して
そこにある霊的事実を見出すことが出来る、というのも
凄いものだ、と思う。
そういえば、私が救いに与った時
当時の牧師先生から聞いた言葉の中に
与えられた賜物の用い方について、深く語られたものがあった。
イエス様を信じ・受け入れて、救いに与った者たちにはみな
それぞれに神様からの「賜物」が与えられるけれど
賜物は正しく用いなければ、それはまさに
「3歳児にライフル銃を持たせるのと同じこと」 と。
確かにその通りだと思う。
正しい使い方を知らず、教えも学びもせずに
自分勝手に、そして、自分の思うように用いてしまったら
それこそ、とんでもないことになるよね
まさに、敵のみならず、愛する人たちや自分
そして、全く傷つけなくてもいい人まで、傷つけてしまうかも。
神のことばであるイエス様の御言葉。
鋭い両刃の剣ゆえ、決して不用意に人を傷つける道具として
イエス様の御言葉を用いたくはないし
また、同時に自分自身を傷つけるものとして
イエス様の御言葉を受け取ることはしたくない、と思ってしまう。
まさに正しい御言葉の解き明しをもって語られるメッセージを通し
きちんと理解していかないとね。
主の御言葉には力がある、のだから。
【主の御言葉待ち望む】