むかしむかし、桜谷というところに、おじいさんが孫の若者と一緒に住んでいました。
この桜谷には、むかしから大きな桜の木があります。
おじいさんは子どもの頃から桜の木と友だちで、春が来て満開の花を咲かせると、おじいさんは畑仕事もしないで桜をうっとりとながめていました。
そして花びらが散ると、おじいさんはその花びらを一枚一枚集めて木の下に埋めました。
「桜や。今年も楽しませてくれて、ありがとうよ」
さて、そのおじいさんもやがて年を取り、とうとう動けなくなりました。
二月のある寒い日、おじいさんは北風の音を聞きながら、ぽつんと若者に言いました。
「わしは今まで生きてきて、本当に幸せじゃった。だが、死ぬ前にもう一度、あの桜の花を見たいものじゃ」
「そんな事を言ったって、今は二月だ。いくら何でも・・・」
若者はそう言いかけて、口をつぐみました。
おじいさんが目をつむり、涙をこぼしているのです。
きっと、桜の花の姿を思い浮かべているのでしょう。
「おじいさん、待っていろよ」
若者はじっとしていられずに、外へ飛び出しました。
そして冷い北風の中を走って、桜の木の下に行きました。
今日は特別に寒い日で、桜の木も凍える様に細い枝先を震わせています。
若者は桜に手を合わせると、頼みました。
「桜の木よ。どうか、お願いです。花を咲かせて下さい。おじいさんが死にそうなんです。おじいさんが生きている間に、もう一度花を見せてやりたいんです」
若者は何度も何度も祈り続けて、夜が来ても木の下を動こうとはしませんでした。
やがて夜が明けて、朝が来ました。
桜の木の下で祈り続けていた若者は、あまりの寒さで気を失っていましたが、急に暖かさを感じて目を覚ましました。
「どうして、こんなに暖かいんだ? それに、甘い花の香りがするぞ」
若者はゆっくりと顔をあげて、桜の木を見あげました。
「あっ!」
何と不思議な事に、桜の木には枝いっぱいに花が咲いていたのです。
二月のこんなに寒い日に、しかもたった一晩で咲いたのです。
「ありがとうございます!」
若者は桜の木に礼を言うと、おじいさんの待つ家へ走って帰りました。
「おじいさん! おじいさん! 私がおんぶするから、一緒に来て下さい」
「何じゃ? どうしたんじゃ?」
「いいから、出かけますよ」
若者はおじいさんを背負うと、桜谷へと向かいました。
やがて、桜の木がだんだん近づいて来ると、
「おおっ・・・」
おじいさんは驚いて言葉も出せずに、ただ涙をぽろぽろとこぼしました。
「よかったですね。おじいさん」
桜の花は朝日を浴びて、キラキラと光り輝いています。
「これほど見事な桜の花を、わしは今まで見た事がない。わしは、本当に幸せ者じゃ」
そうつぶやくおじいさんに、若者も涙をこぼしながら頷きました。
それから間もなく、おじいさんは亡くなりましたが、それからも桜谷のこの桜の木は、毎年二月十六日になると見事な花を咲かせたそうです。
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