1990年に嫁と娘を来日させる為に
マニラでビザ発給の手続きを始めます・・・
翌日もビーチへ行こうと嫁が云い出した
下記のいずれかのクリックにて
応援のほどを宜しくお願い致します・・・
おはようございますHamreyです
マニラのTatayへ電話をした後に
マクタンの嫁姉Etへ電話してその提案があったと云う・・・
どうせする事は無いので快く了承したが
御一行さんを引き連れてと云う気にはなれなかったが
嫁も同意見であったので安心した次第でした・・・
翌朝は朝食後にジプニーでマクタン島のEt宅へ行き
そこのサリサリでドリンクと袋菓子を買ったら
トライシクルでハドサンビーチへ向かいます・・・
写真は18年4月
当時のハドサンビーチの波打ち際は
もう少し狭かった・・・
いつの間にか砂を入れて椰子🌴の木を植えていた・・・
(ビーチっぽくなっている)
パブリック・ビーチと称されていたが
入場料一人20P(約100円)×6人分(子供同額)
コテージ代(小)200P(約1000円)
(ワイと嫁に娘M子・嫁姉Etと娘Hに嫁妹U)
当時の金額設定では観光客なら平気で行けるが
一般P民では無理であったのでが
安全面としては良い方であったでしょう・・・
(誰かが払わうなら一般P民もやって来る)
そして宿泊設備も併設しているので企業等の
リクレーションの場としても活用されて居た様でした・・・
因みにこの日の入場時には
見慣れた企業名の書かれた旗が何本も靡いていたが
正にそれで有った様です・・・ (慰安旅行・・・?)
その企業ってのは
フィリピン航空(PAL)でした・・・
まぁ~ビーチ沿いのコテージには
多くのPAL職員が押し寄せていて
そりゃ賑やかでした・・・
勿論Gwapaなステュワーデス(当時はこの名称)や
地上職員も多く居たので目移りしちゃいました・・・
(人種が違うとも思える様な人達が多い)
(P男職員も居たが・・・)
と云ってもMalさんご推奨の
写真はネットで拾った
”ノーブラチャレンジ”等は開催されておらず
普通のフィリピン風水着(Tシャツ・短パン)でしたが・・・
中には水着のGwapaも居ただろが記憶にない!
その中で我々は空いているコテージを確保して
スナック菓子とコーラで”カンパ~イ”
娘M子と義姪Hは入水したいと云いますが
P民的準備体操のKa-onなのだが・・・
忘れていました・・・!
仕方ないのでビーチにあるレストランへ行きます・・・
写真は18年4月
流石に6人分の食事代は高く付きますが
今日で嫁親族達ともしばしのお別れと云う事で
チャーハンとイカリングの揚げ物等P民食です・・・
だが白米を追加したのは云うまでも有りません・・・
もし足りなかったらペンションを出掛ける前に
嫁には500P(約2500円)を渡してあるので
飲み物や食べ物が欲しければ買って来てもらいます・・・
(一度ゲートを出て通りまで行けばサリサリは沢山あった)
(勿論で買い出し役は嫁妹U・・・)
(その際にもう一度入場料を払うのは交渉してチョ)
食後にコテージに戻り子供達は入水して往きますが
我々はお喋りでもと思って居たら
何か騒ぎ出したPALの団体様・・・
観ると男4人掛かりで大柄なP~ナを持ち上げて
海に”ドボ~~~ン”・・・
そして”Next!”と言っているが何だろう~・・・!?
次のコテージに入って行き何やら言った後に
一人のP~ナを引きずり出した
又もや海に”ドボ~~~ン”
嫁には男性職員の話しが聞こえたのだろうか
『折角ビーチに来ているのにコテージ内に居て
全然泳いで居ない者を強制的に入水させている』
との説明であった!
(観ていると入水させられたのはババエだけ)
セクハラとかパワハラ何て言葉は存在しない時代です!
例え何か言われたとしても
イザと言う時の”訓練”とでも言い逃れるだろう・・・
そしてこれは面白いとこの事を嫁に相談して
次回から飲食ばかりの奴等はペナルティーとして
この方式を執ろうと決定した・・・
(その間も”ドボ~~~ン”と云う音は続いている)
この事を嫁がEtとUに説明すると
直ぐに三人で一斉に入水して行った
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It will be erect encouragement. ⤴
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留守番役のワイにはお咎めは無かった・・・