オウム真理教の教祖、麻原彰晃(本名、松本智津夫)死刑囚ら7人の死刑が執行された。私は3年前、麻原死刑囚の3女のインタビューをし、トカナに掲載した。

 

http://tocana.jp/2015/09/post_7268_entry.html

 

 オウム真理教の教祖で死刑囚となっている麻原彰晃(本名、松本智津夫、以下、麻原)(60)=地下鉄サリン事件などで死刑確定=を父に持つ松本麗華(りか)さん(32)が、手記『止まった時計 麻原彰晃の三女 アーチャリーの手記』(講談社)を上梓した。筆者は、手記が出される前の2月ごろ、「お父さん分かりますか? 麻原彰晃の三女 アーチャリーのブログ」を通じ、取材を申し込んだ。この時は、出版前で準備に追われていたために、取材に応じてもらうことはできなかったが、月日が経ちある程度落ち着いたようで、先日ようやく話を聞くことができた。

 


■「生きづらさ」について聞きたい

 麗華さんが私の取材に応じようとしたのは、取材申し込み書に私が書いた「生きづらさ」という言葉が心に引っかかったためだった。私も麗華さんの「生きづらさ」に関心があった。それは、社会的に大きな関心がある事件の中心にいた人物を父親に持つことによる「生きづらさ」はどのようなものかを知りたいと考えていたからだ。

 

 そもそも、麗華さんの「生きづらさ」の根源は、機能不全家族からのものだ。父親も母親もいるが、「親」としての存在感が強かったわけではない。誰も、麗華さんと愛着(アタッチメント)行動をしているわけではなかった。幼いころ、基本的な信頼関係を築く相手がいなかったのだ。

「帰ってこない父と、家から出ない母」(P.18)と、あるように、麻原は当時、ヨーガ教室の仕事で忙しく、道場に住み込んでいた。たまに帰宅すれば、子どもたちの間で父親の取り合いになる。一方、母親は家にこもりがちだったようだ。さらに、88年8月に富士山総本部道場で生活しはじめて、多くのサマナと触れ合うようになってから、人間関係が不安定になった。

 


■希死念慮と向きあう少女時代

 こうした中で麗華さんは「死にたい」と考えはじめる。同書には『今考えると、本来の自分と期待される自分とのギャップに苦しんでいたように思います。わたしの評価は、わたし自身の物事の達成度により上下するのではなく、ただ、父や周りの価値基準で上下しました』(P.49)と綴っている。

 

松本麗華さん(以下、麗華さん)「5、6歳のころには、『死にたい』と頻繁に思っていました。子どもはそんなことを考えないと思っている人が多いようですが、子どもって結構、大人です。世界中の人はみんな『死にたい』と考えつつ生きているんだ、と思っていました」

 

 当初、麗華さんは千葉県船橋市に住んでいたが、3歳のころ、初めて家出をする。母親に叱られたのがきっかけだった。このころから、「葛藤があった」という。2年後、静岡県富士宮市の総本部へ転居。環境を変えても心の底にある「死にたい」という気持ちは変わらない。当時は、総本部の屋上に上がり、自殺することを考えていた。

 

麗華さん「この時の風景は憶えています。屋上からの景色は、白熱灯に蛾や虫が寄ってきていて、その虫が死んでいるのが見えました。また、掃除もされていなかったので汚かった。そこから飛び降りるのが怖かった。痛そう。それに(自殺は)取り返しのつかないことという感じでした。ただ、ギリギリのこと、柵を超えて、フチに捕まって…ということはしていました。怖かったですね。恐怖心がありました」

 

 自殺する寸前、誰かの顔が浮かび、ストッパーになることもあるが、麗華さんの場合は、誰の顔が浮かんだわけではないようだ。だが、

 

「私は死んだら、父が悲しんでくれるかな?」(麗華さん)

 

 と、思ったという。麗華さんは父親を「大好き」といい、「父がいたから生きていたんじゃないですか」と話す。気持ちの中に、他の誰もいなかった。こうした希死念慮は山梨県上九一色村(現在、甲府市に編入)の第2サティアンに引っ越しても続いた。

 

麗華さん「上九一色村で凍死しようともしました。8、9歳のときです。どうやって思いついたか? 普通に思い浮かんだんですが…。凍死をしたら、死後の見た目がいいというような話は聞いていた。でも、凍死って大変なんですよ」

 

 凍死しようとサティアンの屋上にも行った。だが、30分ほど経つと、新実智光(松本サリン事件での実行犯、地下鉄サリン事件では運転手役などで死刑確定)が来たという。

 

■父との関係が生に繋ぎ止めてくれた

ただ、新実が麗華さんの希死念慮を悟っていたわけではなく、たまたま麻原が麗華さんを呼んだだけだった。

 

麗華さん「呼ばれた理由は、『勉強をしたのか?』という確認でした」

 

 麗華さんと麻原とのコミュニケーションの中で、彼女が幼いころに記憶していることのひとつは、「勉強をしたのか?」と聞かれることだった。

 

麗華さん「このとき、嬉しかったので覚えているのです。家出しても、何をしても気づかれないことが多かったので。こうやって呼んでくれるのが父だけだったように思います。また父は、叱った後は必ず抱きしめてくれました。父とのスキンシップは多かったように思います。逆に母とはまったくありませんでした」

 

 麻原なりの「父親としての愛情表現」だったのかもしれない。また自身の希死念慮のことを誰にも話さなかったわけではなく「飛び降りようと思った」という話は周囲にしていた。しかし、「危ないからやめてくださいね」と言われるだけで、誰も心配していると感じなかったという。だからこそ、今でも見捨てられないかと不安を感じてしまうそうだ。

 

 麻原逮捕前は、機能不全家族でありながらも、「父という安全地帯があっての辛さ」だった。しかし、逮捕後は「生きづらさ」の質が変わる。「安全地帯がなくなってからの辛さ」となる。この時期、麗華さんはノコギリで腕を傷つけ、記憶までなくし、自殺未遂も経験した。

 

麗華さん「日本が核爆弾を落とされて、私だけが生き残った。そして、アメリカに救出された。そのだけ世界が壊れたのです。しかも、本当に救出されたのならいいですが、捕らわれたようなもの。幸せを感じることはありませんでした」

 

 希死念慮が続いていた麗華さんはずっと「いつ死んでもいい」と思っていた。しかし、手記を出してからは心の整理がついたため、少しは楽になったという。

 


■捨てない父との過去

 

 5歳のときに、麗華さんはホーリーネーム(出家信者に与えられる、オウム真理教内の、宗教名)を麻原から付けられる。ウマー・パールヴァディー・アーチャリー、「ウマー・パールヴァディー」は、オウムの主宰神であるシヴァの妻の名前。<いたずら好きというイメージ>(P.47)が由来だ。

 

 ただ、最近では、その名前を捨てなさいと言われることもある。しかし、麗華さんにとっては馴染んだ名前で、自身の中では信仰と関連しているわけではないという。

麗華さん「過去も含めて、私は私でいたい。だから、積極的に名乗るつもりはないですが、捨てるつもりもない」

 

 麗華さんの話を聞いていると、覚悟のようなものを感じた。社会との折り合いをつけるために、例えば、ホーリーネームにしても「過去と決別するために、捨てました」と言ったほうが受けがいいのは明白だ。しかし、その社会的な「受け」を気にせずに、「わたしはわたし」としての生き方を選んでいる。また、「父とは決別した」と書けば、より「受け」はいいかもしれないが、父としての麻原に対する愛情も随所に記されていた。その意味で、私は麗華さんの言葉に「正直さ」も感じる。

 

 公安調査庁は麗華さんを、教団の後継団体のひとつで主流派のアレフの実質的な役員としてみている。一方、麗華さんは公安調査庁に対して、幹部の認定の取り消しと、名誉毀損の損害賠償を請求。日弁連にも人権救済申し立てを行っているが、実質的には門前払いで、人権救済事件としては取り扱わないとされている。

 


(取材=渋井哲也)