いじめ、虐待、両親の離婚、長時間労働、パワハラ…。様々な理由から、自分を肯定できなくなった結果、“生きづらさ”を抱えることになる人たちが、現代社会では数多く存在する。

 

そうした人たちは、自身の”生きづらさ”とどのように向き合い、日々を過ごしているのだろうか。彼ら、彼女たちが抱える”生きづらさ”とはどのようなものなのだろうか。様々な事例を通してレポートする。

虐待 生きている意味がわからない

虐待やいじめ、性的被害を経験した奈保(27、仮名)は、出会い系サイトやSNS、SMサイト、援助交際などを通じて、自分自身を模索し、居場所を求め続けた。今は学びの中で生きることの模索をしている。

 

奈保が初めて「死にたい」と思ったのは3歳の頃だった。若者の自殺をテーマに取材をしていると、10歳以前から「死にたい」「生きたくない」と感じ始めていたという話を聞くことがある。奈保も早い時期から感じていた。きっかけは父親から物差しでたたかれていたことだ。

 

「私が私でいる意味がない」

 

虐待された奈保はそう思い始めた。父親なりに何かしらの理由があったのかもしれない。奈保は3歳なりに叩かれた意味を考えたのだろうが、わからないでいた。理不尽さを感じていた。その後、そんな父親とは離れることになる。

 

母親は知的で合理的な考えをする人だった。キリスト教プロテスタント系の信者でだった。カトリック系の信者の父親と大学時代、留学先で知り合ったという。しかし、父親は浮気し、その後、浮気相手の女性との間に子どもができた結果。結局、両親は離婚した 。母親側についた奈保はこう考えた。

 

 「なんで私は生かされているんだろう」

 

生きている意味がわからないでいた。虐待をうけた子どもは、奈保に限らず、そう感じることがある。

いじめ 自分を肯定してくれる存在はいない?

小学生のとき、奈保と母親は都内の市部に引っ越して来たが、1年から5年までいじめられ続けた。街を歩いていると、ボールをぶつけられたりもした。2年生のときは、6年生の男の子に校長先生が叱ってくれた。  こんな経験があったために、奈保は大人に取り入った。表立ってはいじめもなくなり、男の子たちも優しくしてくれた。

 

「年上には仲良くしてもらえるのですが、同世代がダメですね」

 

母親は仕事が遅く、夜10時ごろに帰宅していた。姉も当時は高校生で、朝は部活、夜はバイトで忙しかった。鍵っ子となり、学校が終わると学童保育に通っていたが、そこでもトラブルに遭遇するがあった。年上の女の子から平手打ちをされたのだ。理由はその女の子が好きな男の子からプレゼントをもらったことが面白く思われなかった理由だった。

 

「『なんでだろう?』と考えたりした。自分を肯定してくれる存在はいないんじゃないか」

 

いじめの積み重ねにより、自分が受け入れられないことを自覚していく。小学校4年のころになると「どうして生きているんだろう」という疑問を感じた。

 

「なんのために生きているのか。自分以外の人はちゃんと愛されている。自分はそうじゃない。何もできない」

 

居場所がないと感じた奈保は6年生のとき、長野県にの山村留学をした。山村留学とは、大自然の中でホームステイ先の“家族”と過ごし、地元の小中学校に通うものだ。母親が忙しく、姉が海外へ留学したことも契機だった。

 

一年目は新しい人間関係と環境を受け入れて、楽しむばかりだった。しかし、しばらくすると学校が荒れ出した。山村留学にはもともといた学校に馴染めない子どもたちが来ていた。そのため統率が取れなくなってきていたのだ。

性的被害にあう。「抵抗したところでやめるわけない」

そんな矢先に、ホームステイ先の“父”が地元の村長選に出ることになり、ホームステイどころではなくなった。自分を含めて、3人の子どもが別のホームステイ先に引っ越す。そこではもともと男の子3人を預かっていたが、そこで、奈保はレイプされそうになった。

 

小学校5年生のころにはすでにバストはDカップだった奈保は、夏祭りで男の子に会うと、「お前、おっぱいを揉ませろ」と言われることも頻繁にあった。そうしたこともあってか襲われたのだ。しかし、逃げることができた。

 

「相手が興奮しすぎて、スキができて、逃げることができた」

 

手を出して来た男の子には彼女がいた。性的対象になったこと自体では傷つかなかったが、自分の価値はいったいなんなのか、と悩んだ。こんなこと、誰にも相談できないでいた。

 

夏休みになり、東京の実家へ。このころも性的被害にあう。池袋を歩いていて、知らない人にいきなりキスされた。そして、カラオケボックスに連れて行かれ、強姦された。状況を考える余裕もなく、パニック状態だった。「抵抗しないんだ?」と言われたが、奈保はこう思った。 

 

「抵抗したところでやめるわけではないだろう」

 

筆者は性的被害を受けた人の取材をすることもあるが、抵抗しない人もいたりする。それは、望んだからではない。抵抗すれば、殴られたり、殺されるのではないか、との恐怖があるから、と聞いたことがある。奈保の場合は、恐怖以前に、パニック状態だった。

 

夏休み明けに長野県に戻った。すると、ホームステイ先で他の女の子も性的被害を受けていることがわかった。そのことが公になり、指導員から呼び出された。何があったのかを素直に話した。誰にも言えなかったことがそのときは性的被害にあったことを告白できたという。

 

「東京へ帰るか?」

 

指導員はそう言った。気を遣ったのだろうが、奈保は「見捨てられる」と思った。ただ、加害者の男の子が山村留学をやめることになったため、居場所は確保できた。ただ、このころから、奈保はリストカットするようになった。

 

「小さいころから手首に爪をあてて、痛みを我慢した。体の痛みで心の痛みを我慢した。この程度では気がつかれない。ただ、山村留学のときは手首を切った。誰かに助けてもらえることを覚えたから」

出会い系、SNS、SMサイトに居場所を求める

中学一年の秋、都内へ戻った。山村留学は一年の期限付きだったためだ。東京に戻ってからは母親から携帯電話を親から持たされた。そこで出会い系サイトへアクセスした。

 

〈彼氏が欲しいです〉

 

そう書いて、反応を待った。会ったのは一人だけ。基本的には、広島在住の男の子とメールを繰り返した。ところが、出会い系サイトへのアクセスがバレてしまう。母親は怒って、携帯を水没させた。ただ、忙しい母親との連絡手段がないのも問題だと感じたのか、母親はPHSを与えた。

 

中2になると、ソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)のミクシィで、20代後半の男性とつながった。命令口調のメッセージを送って来たが、「メールだけだったが、命令してくれるのは楽だった」と奈保は振り返る。

 

SMサイトにアクセスするようにもなった。当初はメッセージ交換だけだったが、半年で“調教”される。自分の存在価値を悩んでいた奈保だが、女性性を利用することで男性が寄ってくることを知る。だが、こうも感じた。

 

「胸が大きく、セックスアピールはあるが、自分自身は醜い」

中学2年というと14歳。一般の成人男性にとっては未成熟。恋愛や性愛の対象になりにくい。性的な対象と見られないことで、自信を失う。自分の価値は性的な存在だと感じていた奈保にとっては、価値観が混乱する。一方で、性的対象になったときは自信を持てた。

 

「セックスしてしまえば、私が勝ちって思う。快楽で相手を支配することができる」

 

セックスでの支配欲を持つようになった奈保は、濃密な人間関係は避けたいと思っていた。

 

「相手から求められると、私からの興味は薄れる。私ではなく、女性性を見て欲しい」

援助交際。自分を大切にすることがわからない

このころは、女性性によって男性を支配することで、自分を保っていた。SMサイトだけでは飽き足らず、再び出会い系サイトへアクセス。今度は援助交際をした。1日3人ということもあった。3年生の終わり頃までに100人以上は経験した。 

 

「男性にはそれほど興味はない。お金が欲しかったわけでもない。お金に困ったわけでもない。対価をもらったが、あげたもののほうが多いと思う」

 

出会い系サイトでの援助交際ばかりではない。池袋駅付近で声をかけられ、2万円でしたこともある。また、「○○(地域名)のほうが相場がいい」と聞かされ、場所を決めて、3、4万円でしていた。「どうして普通の子がこういうことするの?(援助交際であっても)ご飯だけ、という人のほうが多いんじゃない?」と質問されたこともあった、という。

 

「自分を大切にするということがわからない。何か傷ついている人に癒してあげている。こっちは誰でもいい。相手も誰でもいい。そこでのマッチングをしているだけ」

 

援助交際をしているうちに、「女性としての価値が下がる」と思うようになっていく。また、「誰でもいい」のではなく、「私を選んで」と思うようになった。そんなときに、ミクシイで知り合った彼氏との出会いがあった。17歳上の人だった。

出会い喫茶では指名されない。需要がない?

彼氏との出会いによって「私」が選ばれることを望んだ。その彼氏とは高校時代も付き合った。ただ、高校は2年でやめてしまった。

 

「みんな高校は卒業するものだと思っていた。母親は大学院卒だし、姉も海外に留学していた。でも、受験するのが嫌だった」

 

彼氏が仕事で海外へ。その後、専門学校に進むものの、新宿で遊ぶようになり、出会い喫茶にも何度か通った。しかし自分が指名されない。出会い喫茶は、男性がマジックミラー越しに女性を見て、好みの女性を指名。トークルルームで話すシステムだ。

 

筆者も行ったことがあるが、男性が指名している女性は、プロを感じさせない、あるいは、素朴な女性が多い。女性性を売りにするような女性は敬遠されがちだ。だからなのか、奈保は指名されなかった。 

 

「自分に需要がないことがわかった」 

 

彼氏が海外から戻って、再び会うことになったが、以前のようにお互い惹かれあわず、奈保は浮気をした。当時、彼氏は5人いた。承認欲求も性的満足も満たされていなかったからだ。

学びの場へ。古典的性役割を嫌悪する

ただ、20歳の頃、すべての彼氏を整理した。地元に飲みに行くと、バーの店長と仲良くなり、結婚話になっていく。母親に話すと、「大学くらい出ておけ」ということで、高校卒業資格を取り、短大へ進学した。

 

「このころは生きていることが楽しかった。短大に進学すると、勉強が楽しく思えた」

 

教授にも可愛がられ、研究室で5時間も話し込んだこともある。人格を肯定される体験を初めて味わった。女性性を認められることはあっても、人格を肯定されるという明確な経験はなかったからだ。

 

 「それまでは生きたいとか、死にたいとか、決める権利がないと思っていた。でも、誰かと比べることなく、『あなたがあなたでいることが素晴らしい』と言われた。彼氏もそう思っていたかもしれないけど、言葉にしてくれたのは初めてだった」

 

彼氏の実家に挨拶にも行ったが、女性たちが食事の用意をしていたことに違和感を覚えた。古典的な性別役割が気になったからだ。奈保の家族は、父親も食事の用意に参加していた。さらには、勉強を楽しんでいると、彼氏と興味が違ってきていた。そのため、自分から別れを言い出した。

 

「喪失感は激しかった。自分から手放したのに、なんで?と思った。彼氏のことを信じることもできたんじゃないか。もう、私と結婚しようと言ってくれる人はもういないんじゃないかとも思った」

「完全自殺マニュアル」との出会い。生きることの模索 

自分から別れを告げたものの、彼氏と別れたことで自己肯定感が下がっていく。求めたのは、やはり、女性性を認めてくれる場だった。ハプニングバーに通ったのだ。

 

「真面目な人と思われたが、性的な場が一番落ち着いた。いろんな人と出会い、セックスをした」

 

一方、勉強が楽しいという感覚は続いていた。短大を卒業後、大学に編入した。ただ、何かが足りないと感じていた。以前と比べると、精神的には落ち着いているような時期だが、生きることに積極的になれない。だから、自分で自分の首を絞めたり、息を止めたり…。自殺のリスクが高い行為はしてないが、死をイメージする行為を繰り返した。そんなときに、『完全自殺マニュアル』(鶴見済著、太田出版)を買った。

 

 『完全自殺マニュアル』は1998年の発売だ。あとがきにはこうある。

〈「強く生きろ」なんてことは平然と言われてる世の中は、閉塞してて息苦しい。息苦しくて生き苦しい。だからこういう本を流通させて、「イザとなったら死んじゃえばいい」っていう選択肢を作って、閉塞してどん詰まりの世の中に風穴を開けて風通しを良くして、ちょっとは生きやすくしよう〉

筆者も取材でこの本を持ち、「積極的に生きる理由もないが、死ぬ理由もない」という若者たちに出会う。なかには方法を試す人もいるが、多くは「いつでも死ねるから、とりあえず生きる」という考えだった。奈保は「いま、ここ」を楽しんでいるようにも見えるが、模索のなかで生きる意味を探し続けている。

 

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