1991年1月17日、多国籍軍がイラクに空爆をし、湾岸戦争が始まった。私は当時大学2年生で、試験のために、大学に向かっていた。大学生協にテレビがあると思っていた私は、どうなっているのか気になり、生協に寄った。すると、私より以前にテレビの前にいたのは、留学生たちだった。日本人の学生は試験会場に向かっているのか、誰もいなかった。私も試験だからすぐに会場に向かった。

 「日本人は戦争のことをあまり気にしないのかな」。なんて思っていたら、湾岸戦争反対のデモが行われることを知り、私は人生初めての反戦デモなるものに出かけた。当時のデモは、隊列ごとに、セクトや団体が分かれていた。私はどこに入っていいのかわからなかったが、「日本はこれでいいのか市民連合」(日市連)の隊列が入りやすかったので、そこに入ったものだった。デモの参加者が逮捕されたといった話も流れていたっけ。

 何度か反戦デモに行くうちに、同世代ながらも、ノンセクトの人がいることに気がついた。私は当時、いろんなセクトの人に出会い、セクトに入ることを勧められていたが、なぜ権力側とではなく、セクト間で対立するのか理解できなくて、どこのセクトにも入らなかった。そのため、「あいつはスパイだ」なんて言われたこともあったっけ。でも、ノンセクトの学生たちもデモに参加しているんだなと思ったりした。ただ、学内で活動している学生たちにはデモであったことがなかった。

 そういえば、学内で活動していたある先輩が、学生運動が衰退した一因として、学内の勢力を気にして、あるいは、大学という空間での勢力を気にして、他の社会運動や、社会問題に関心がある人たちとのネットワークが作れなかったことを「学園埋没主義」という言葉で総括していたのが懐かしい。

 それにしても、あの時代、天安門事件、ベルリンの壁崩壊、ペレストロイカと時代はかなり動いていた。なので、私もいろんなところに顔を出した。といっても、日市連のイベントを中心に、そこで出会った人をハブにして、勉強会だの講演会だの、行っていた。私の社会運動のベースは日市連だったんだなと、今は思ったりする。あのときに知り合った人たちは今、何をしているんだろうか。

 そんな運動の中で、一つの言葉が今でも残っている。

 「カエルさん、もう熱いですよ」。

 カエルは熱湯に入れようとすると飛び出してしまう。しかし、徐々に温めて熱湯にしていけば、温度の変化に気が付かず、気がついたときには熱湯から抜け出せない状態になっている。そのことを示した言葉だ。

 イラクに侵攻されたウエートは、湾岸戦争後に、感謝決議をするが、その対象に「日本」は入っていなかった。そのため「日本は金は出すが、血は流さない」といった批判が出てきた。戦争のときに、国連平和協力法案がつくられたが、この自民のハト派と社会党などの反対で廃案。あのときの法案の反対デモにも参加した記憶がある。この反対運動のときに、カエルの例えが出たような気がする。

 私はPKO自体は反対しない。平和維持活動は戦争をしないためのものだからだ。しかし、日本政府のがその後出し、成立させたPKO協力法を始め、周辺事態法などは反対だ。というのも、そもそも自民党は党是として「自主憲法」を制定し、憲法9条を改廃していこうとしている。自民党の目的は、海外に軍隊を派遣可能にすることで、その手前に、誰もは反対しにくいアイテムを出していく。そして気が付いたら、憲法9条が変わっている、という方向に見えるためだ。

  「熱湯」はまさに、沸点に近づいている。事実上の憲法9条の改正がなされようとしている。それが、集団的自衛権の一部容認という安倍内閣の閣議決定と安保関連法案だ。しかも、憲法改正手続きさえしなかった。ただ、閣議決定だけでは、集団的自衛権は使えない。その実態をなすのが安保関連法案だ。全国各地でなされているデモは、最後の抵抗だが、実は、今日に至るまでの、PKO協力法から始まって、自衛隊が海外で活動を行うこと自体の抵抗感を弱めてきたことの集大成なのだろう。その意味では、自民党の政策は、ずっと一貫しているのだ。

 憲法が死んだ日。

 のちにそう言われる日がまさにここ数日中なのでしょう。ただ、憲法が死んだのなら、また蘇生すればいい。そのためには、安保関連法案が可決、成立しても、使わせないことがまずは目標になるし、選挙を通じて、集団的自衛権の一部容認の閣議決定を破棄し、安保関連法案の一部凍結を求めるしかない。

 熱湯の中からカエルを救う手立てはこれしかない。

 ここまでは、立憲主義に危機感がある人たちは同意できるかもしれない。しかし、その後、憲法9条の改正をめぐっては、どのような条文にするかにもよるが、立場が分かれていくだろう。そのときは、また別の動きがあるにちがいない。