●「釜石の奇跡」と呼ばれた学校
●児童生徒は助かったが、地域では犠牲者が多かった
●避難場所ではない「防災センター」

 東日本大震災から9ヶ月目の12月11日、 岩手県釜石市の釜石東中学校の生徒たちは、釜石高校体育館で開かれた「かまいしの『第9』」に参加した。市民参加で行われているもので、今年で34回目。釜石東中学校の参加は5年ぶりで3回目。震災前から参加が決まっていた。平野憲校長は「だからこそ、歌うことができてよかった」と考え深そうに話していた。生徒たちは「緊張した」と言いながらも、大きな晴れ舞台を満喫していた。会場に貼られた東中生徒からのメッセージは「絆」の言葉があった。そのほか、「もう被災者ではない」と、被災当時の全国からの支援に感謝しつつも、次のステージに進もうとしている生徒もいた。


$てっちゃんの生きづらさオンライン@Ameba


●「釜石の奇跡」と呼ばれた学校

 3月11日の東日本大震災に伴う津波で校舎が被災した釜石東中学校。津波の高さは15.4m(東中近くの崖・遡上高)にも及んだ。しかし、生徒たちは全員走って避難して、無事だった。津波教育を担当してきた平野美代子教諭は「地震があったあと、生徒が校庭に集めってきていた。そんな中で、職員室の方から『津波が来るぞ』との声が聞こえたんです。そのため、津波がくる前提になり、走って逃げることにした」と話す。

$てっちゃんの生きづらさオンライン@Ameba


 教員たちは津波対策として、高台に逃げることを教えていた。そのために、1キロ近く離れた高台にあるデイサービスセンターまで逃げ出した。隣の鵜住居小学校でも、中学生が走って逃げるのを見て、釣られるように走って逃げることになった。途中で中学生と小学生が手をつないで逃げる様子はのちに話題となった。結果として、小学生と中学生は助かった。ただ、欠席していた生徒は亡くなった。津波教育が徹底していた影響で児童生徒が助かったことは「釜石の奇跡」とも呼ばれた。

 「ただ、あとで分かったことですが、欠席していた生徒は病院にいたんです。地震があったときに、親友のケータイにメールをしていたようです。携帯電話は学校への持ち込みを禁止しているために、そのメールを親友が読むことはありませんでした。その携帯は家とともに津波に流されました。あとでデータを復旧してみると、欠席していた生徒からのメールがあったというのです。そこには地震直後のメールがあったのです。もし、そのときメールを見ることができたら、避難を促せたと、その生徒は後悔していたようです」(平野教諭)

続きは、BLOGOSメルマガ「渋井哲也の悩み、もがき。それでも....」