3.11の東日本大震災の発生から9月26日で200日を迎えます。まだまだ多くの生活課題や街づくりの課題が山積みになっています。そんな中で、9月11日には、宮城県石巻市の仮設住宅では、無職男性が遺体で発見されました。死後一週間ほど経っていたようで、警察の調べてでは、腹部に自ら刃物で刺したような傷があった、ようです。自殺と見られています。

 仮設住宅で60歳男性が自殺か…宮城・石巻
読売新聞 9月16日(金)11時51分配信
 宮城県石巻市の仮設住宅「開成団地」で、入居者の無職男性(60)が死後約1週間たった状態で見つかっていたことが16日、分かった。

 遺体の状況から自殺と見られる。県警石巻署などによると、11日午後2時頃、仮設住宅を訪れた男性の親族が、室内で死亡している男性を発見。腹部に自ら刃物で刺したような傷があった。男性は1人で入居していたといい、周囲の住人も気付いていなかった。

 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110916-00000497-yom-soci

 石巻市ではなかなか希望する仮設住宅にあたらないと言われています。また、私が訪れた福島県相馬市や浪江町(仮設住宅は二本松市)、飯館村(仮設住宅は福島市)、岩手県宮古市の「グリーンピア三陸みやこ」の仮設住宅では地域ごとに住んでいるのですが、石巻市では住んでいた地域に関係なく抽選で行われているようです。そのため、子どもからすれば、学校が遠くなり、転校をするか、親が送迎をしなければなりません。通学バスを運行してほしい、との声もありますが、実現していません。

 沿岸部に住んでいた人たちの中には、旧河南町という、車で20分ほどの住み慣れない“内陸部”で生活を余儀なくされる人もいると思います。件の男性も、住み慣れない場所だったことが考えられます。家族と一緒だったり、近くに友人・知人がいれば、孤立感はあったとしても、話すことで、孤立感がある程度解消できたりするかもしれません。しかし、記事にもあるように、男性は1人で入居しており、周囲の住人も気づいていません。

 震災直後、一旦、家族はバラバラになった廣瀬さん一家(「3.11 絆のメッセージ」でも取り上げています)。避難所になっていた青葉中学校で再開してから、ずっと同中学校の体育館で避難生活をしていました。仮設住宅に当たり、引っ越しができたのは8月の最終日曜日でした。

$てっちゃんの生きづらさオンライン@Ameba

 子どもたちの学校は車で15分かかるため、亜耶子さんの送迎は必須になっています。

 文晃さんは、「(以前住んでいた場所の)近くに当たればなあ」と思っていたようですが、なかなか仮設住宅に当たらなかったといいます。

 地域もバラバラになってしまい、子ども会も機能していない状態です。また、仮設住宅には自治組織はありません。廣瀬さん一家はまだ孤立を避けられていますが、一人暮らしの人たちはどうなっているのかが気になるところです。

 ところで、仕事はどうなったのでしょうか。文晃さんは仕事中に被災しました。漁業関係でした。そのため、亜耶子さんは「もう海の仕事には就いてほしくない」という気持ちでした。

 仕事は5月ごろに見つかったといいます。昔、働いていた所から電話があり、建築現場の仕事をしています。ただ、現場は塩竈です。海の側なのです。亜耶子さんは「海の近くでの仕事なので心配で、地震が起きると、すぐに電話してしまいます」と話していました。

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 私が初めて被災地に行ったのは3月15日。栃木県宇都宮市でした。開通したばかりのJRを使ってJR宇都宮駅まで行きました。ちなみに、東武宇都宮線は計画停電のために、運行するかどうかは曖昧な時でした。宇都宮市内は地震被害はほとんどありませんし、私が見た限りではコンビニで物不足になっているのは、乾電池など一部の商品のみでした。混乱はありませんでした。

 当時、県内の学校では、東京電力福島第一原発の事故により放射能が降り注ぐ危険性について、保護者からうるさいほど指摘されていました。そのため、子どもたちにはマスク着用で登下校をしていたのです。私はこの話を聞いて、「大げさだな」と思い、話を聞きに行こうと、宇都宮に向かったのでした。今から考えれば、この時に宇都宮には放射能が降り注いでいたことでしょう。

 (宇都宮市の放射線量<地上20m> 3月15日10:00 1.318μSv/h

 3月のセシウム飛散推計公表~岩手から静岡まで幅広く The News

 この日以降、私は震災関連取材は100日(双葉町やいわき市の人たちが集団で避難した、さいたまスーパーアリーナでの取材、東京や埼玉、茨城での放射線量調査を含む)を超えました。話を聞いた人も、(正確に数えたわけではないですが、一日平均で3人は聞いているという実感から)延べで300人は超えていると思います。今後も、こうした人たちの声をできるだけ多くの人に届けたいと思っています。