青少年インターネット環境整備法(青少年ネット規制法、とも言われている)のあり方について議論している総務省の「青少年インターネットWG」(主査、堀部政男・一橋大学名誉教授)の第3回会合が8日、総務省内で開かれました。この日の会合では、「保護者の判断だけでは弱い。フィリタリングを義務化すべき」との意見がある一方で、「義務化すると教育関係者がリテラシー教育を放棄してしまうのではないか」との声があがった。

 同法は、「青少年有害情報」から子どもを守るために、青少年のインターネット利用について、原則フィルタリングをすることとしている(保護者が解除することもできる)。会合では、数多くの論点が出された。「そもそも、社会人ではない未成年が、情報を自由に発信し、取得する権利を認めていいのか?」(小圷真司・日本PTA全国協議会環境対策委員会副委員長)というものが出されたのは親の心配を代弁したものだろう。

 「そもそも興味関心がある人は、インターネットの問題について話を聞いてくれる。しかし、そのほかの保護者はどうするのか。保護者がリテラシーを学ぶことを待っていられない。その間に被害に遭う子どもが増え続けてしまう」といったものは、素朴な保護者の意見なのだろう。

 子どもを心配する保護者からすれば、インターネットという道具を使うに当たって、いじめや事件の加害者にも被害者にもさせたくない。そのため「国として、子どもたちをどう安全に育てるのかを決めてほしい」(小圷氏)といった、公的な指針を求める気持ちもわからないではない。

 もちろん、表現の自由や情報へのアクセス権といった、憲法や子どもの権利条約がからむ問題でもある。

 ただ、この論理では、子どもがいじめの加害者にも被害者にもならないために学校に行かせない、というものになったり、交通事故に遭わないために、外出させない、ということになる。しかし、「交通事故は起きているが、子どもを家から出さないという親はいない」(立石聡明・インターネットプロバイダー協会副会長)ということになる。

 そもそも、この法律でフィルタリングの対象になるのは「青少年有害情報」。明確な定義はなく、法律でも「例示」でしかない。有害かどうかは、そのユーザーの年齢や地域、発達段階など、その背景となる文化によって一定程度決まると、過去の総務庁の研究会でも報告がある。背負っている文化が多様化すれば、有害か否かの判断も多様化する。特に年齢によるものは大きく、小学校低学年と高校3年生とでは、有害となる範囲が変化するのは当然だ。

 そのため、主査代理人の藤川大祐氏(千葉大学教育学部教授、学長特別補佐)が提出した「フィリタリング提供義務の在り方についての意見」で、

 青少年のインターネット利用環境整備は、インターネットを適切に活用する能力(イカ、「リテラシー」)の向上と、青少年のインターネット利用の管理(フィリタリング等)という2つの対応策を軸に展開される。2つの対応策の比重は、青少年の発達段階に応じて変化させていくことが望ましい。低年齢層等のリテラシーのヒック井青少年への対応策はインターネット利用の管理に重点を置き、青少年の発達に伴って段階的に管理の比重を軽くし、青少年の自律的な利用を前提とした対応策に移行していくことが望ましい。

 とするのは納得のいくところだ。

 しかし、この日もやはり、話題にあがったのは、フィリタリングについての知識だ。いったい、フィリタリングした場合、どんな情報が見られなくなるのか、といった基本的な知識の共有がないのだ。

 例えば、「フィリタリングは魔法の杖、といったイメージがある。しかし、使用した場合としない場合との違いは、消費者としては分からない。子どもたちも、フィリタリングをしても認定サイトが見られるのであれば、逆にフィリタリングしなくてもいいんじゃないか、と言っていた」(木村たま代・主婦連合会)、「子どもたちはフィルタリングすると、モバゲーが見られないと思っている」(竹内和雄・大阪府寝屋川市教委指導主事)といった、子どもたちの声が寄せられている。

 フィルタリングをどうするのか。これ以前に、フィリタリングをすると何が見られない、何ができない、あるいは、フィリタリングをしても何を見ることができ、何ができる、といった共有のイメージを作り上げることが先決ではないか。今日傍聴して感じたことはこれだった。