増田俊樹監督の「沈黙の隣人」。この映画を一言で言えば....、いや、一言では言えない。何かを言えば、そんな浅い見方しかできないのか?と見透かされてしまう気がする。

 犯罪者の心理や行動パターン、またはその周辺の友情や家族愛などが見え隠れするが、この映画の本質は、生と死をめぐる価値観が見て取れる、といってもいいのかもしれない。そうした感覚が出たのは、これは監督の友人の追悼作品だからなのだろう。

 犯罪といっても、アメリカ映画に見られるような、大銀行の強盗といったような「大きな物語」がそこにあるわけではない。少なくとも映画に出てくる犯罪は「小さな物語」だけだ。アクションシーンもほとんどないために、あまりにも日常過ぎる映画だ。

 しかし、日常過ぎるからこそ、そこに何を感じることができたのか、というのは、見る側の感性を問われてしまう。

 私が気になったのは、監督が演じる主人公の弟子?になっている男の存在だ。学歴が高く見えないが、主人公の子どもの家庭教師役をしている。これは、単に勉強を教えているというわけでない。『父親』役も担わせているのかもしれないと思った。娘からみると、主人公は「本当の父親」ではない。その引け目があるのかもしれない。

 しかもその弟子は、運動神経も鈍く、それほどかしこくもなく、空気が読めるわけではない。こうした種類の人間が出てくる映画はいくつかある。こうした種類の登場人物を「周辺的存在」と読んだりする。メインストリームにいるわけではないが、その周辺には存在していて、なおかつ、主人公はその存在を抱え込んでる。

 ある映画では、いじめられっ子だったりするし、別の映画ではそれがホームレスだったりする。あるいは、トラックの運転手だったりして、それらの存在が非日常的な癒しを提供してくれたりする。この弟子も、あるシーンまでは、そうした癒しの存在だった。主人公も、最後まで、この弟子を逃がそうとしていた。

 ただ、本当に逃亡ができたのは、別の弟子だった。この人物が犯罪計画を立てる。主人公の会社が行き詰まる中で、お金が必要になった時、考えたのは、食堂のお金を万引きである。なんという「小さな物語」を選択したのか、と思ってしまうほど、「日常的な犯罪」をなぜ、このシーンで描いたのか。おそらく、トラブルや挫折は、間が指す、という言葉に表せるように、日常の中に映し出されるのかもしれない。

 人とのつながりとは何なのか。

 背景には、貧困や差別がある。様々な場面で理不尽なことが起きたり、してしまったりする。しかし、人を支えるというのは、そこに「正当な理由」は要らない。情念だけが理由でもよい。そんなことを考えさせられた。