自殺系サイト連続殺人の死刑囚の死刑が執行されました。

 私個人的には、死刑廃止論者ですが、現行で死刑がある以上は、その死刑が下される事件は、判例にしたがって、一定の要件を満たせば、死刑を下すことは反対ではありません。

 この事件の場合、被害者が「ネット心中」の志願者ではありましたが、殺される願望がありませんでした。「やめて」と言う少年をも殺したことを考えれば、残酷さはあると思います。この事件については、拙著「実録・闇サイト事件簿」でも触れていますが、死刑囚となった犯人が、これまでにも事件を起こしているのですが、すべてが、死刑囚の性癖にまつわる犯罪と見抜くことができれば、なにか対策の打ち用があったのではないか、と思ってしまいます。その意味では、刑事政策の無作為が起こした事件でもあったと思います。

 今後、裁判員制度となるのですが、司法の国民参加が建前です。国民参加で、ある犯人が死刑となるかどうかを含めて、判断を下します。日本の裁判員制度では、多数決で有罪か無罪か、量刑はいかなるものかを決めます。

 誰しもが疑いの余地のない事件の場合は、有罪か無罪かを判断するのは難しいことではないでしょう。しかし、量刑の問題は、裁判員が背負って来た文化か価値観にも左右されます。

 また、厳密な証拠はないが、状況から見てその人が犯人である可能性が高い、といった、少しでも疑いがある場合、無罪にしたいと思った裁判員もいるでしょうが、有罪とした裁判員、裁判官が多数の場合は、有罪になります。このとき、無罪にしたかった裁判官は、どんなに抵抗しても、「あの事件で有罪判決を出した裁判官だ」と見られることでしょう。もちろん、その逆もあることでしょう。

 人によっては、「どんな理由があろうと、結果として人が死んだ事件であれば、すべて死刑だ」という考えを持っていことでしょう。あるいは、死刑反対論者もいることでしょう。あるいは、世論を考え、「世の中の注目を浴びた事件だから、世論の動向を気にして決める」という人もいるんだろうと思います。

 私は裁判員制度には反対です。なぜなら、裁判は人の感情がなるべく入らないほうがいいと思っているからです。たしかに、裁判官であっても、感情があるでしょうから、これまでの判決に感情がなかった、とは考えられません。しかし、感情があったにせよ、法で裁かれるのであれば、法の理論に基づいて判決が下されるべきだと思うからです。罪刑法定主義ですから、罪や刑罰は、法理論に基づいてほしいものです。

 しかし、裁判員は、そうした法理論とは無関係に生きている人も多くいます。むしろ、ほとんどの人がそうだと思うのです。だからこそ、事件を感情的に見ることでしょう。そうしたことは、裁判官は国民感情から離れているとの批判もあったことも事実でしょう。だがしかし、それが裁判だと思うのです。もちろん、私も、裁判官への批判的視点はありますよ。

 制度導入で、少なくとも一審では国民感情を優先したとも言えます。2審になれば、従来通りの裁判官裁判になりますので、不服があれば、控訴、上告すればいいのですが。 

 ただ、司法の国民参加がいわれ、国民感情として死刑を望むといった制度を取り続けるのであれば、死刑執行官の国民参加があってもいいと思います。単に、死刑かどうかを決める段階での参加のみならず、執行を含めての国民参加があれば、より死刑に向き合うことになります。それがよいのかどうかをもっと考えることでしょう。執行がどのように行われ、執行官がどのような感情になるのか、そういったことを含めた死刑議論が起きてもいいのかな、って思います。


 執行官の国民参加。そんな提案はどうでしょうか。そう思った死刑執行の記事でした。