筑紫哲也さんが肺がんのため亡くなった。

 筑紫さんを知ったのは、最初は、彼が田中角栄について書いた文庫本だった。その文庫本のタイトルが何か思い出せず、家の書棚にあるはずだと思って探してみると、捨ててしまったのか、見つからない。



 いまはなき「朝日ジャーナル」の編集長をしていたとき、たまに雑誌を買っていたのも思い出す。新人類という言葉を生み出した連載は、当時の彼のセンスのよさを物語っていたように思う。



 そんな筑紫さんが本多勝一さんと「週刊金曜日」を立ち上げたとき、私は応援したいと思った。そのため、当時長野県にいた私は、よく読者会のひとたちと交流をしていたっけなあ。これによってつながった人たちが長野県では多かった。



 ただ、私が読者会の人たちと距離を置くようになったのは、山梨県甲府市で、本多さんと筑紫さんの講演があったときだ。そのとき、右翼から、殺害予告めいた内容の抗議文が送られた。



 講演会の実行委員会では、警備のために警察を入れるべきか否かの議論になった。結果として、警察を入れることになるのだが、その議論をめぐって、「こんなときは、いつも批判している権力を頼るのか」と思って、ちょっと冷めてしまった記憶がある。



 その後、週刊金曜日の初代編集長・和多田進さんが辞めることになる。当初、和多田さんと本多さんは読者会を重視しようとしていた感じはしていた
が、和多田さんが辞めたことで長野県の読者会は距離を置くようになったんじゃなかったかな。筑紫さんは読者会とはそれほどつながっていなかったように思
う。



 こうした経緯から、私は筑紫さんとはほとんど話をしていない。そのため、プライベートなことはほとんど知らず、会話をしたとしても記憶にない。



 筑紫さんをめぐってはさまざまは批判があった。特定の人たちの側に寄っているのではないか、と。しかし、ジャーナリストは事実に迫るあまり、結
果として特定の人たちの側に立つことは当たり前のことだ。そもそも事実とは何か、という問題を含め、彼なりに誠意をもって取材をし、発表していたように思
う。顔をテレビで晒す勇気は、顔を隠していた本多さんとは違っている。どちらがいいとかではなく、スタンスの違うだろうけど。



 ただ、即位の礼だったか、皇太子と雅子さんの結婚の儀だったかは記憶にないが、冒頭の数秒間だけニュースを流し、「私たちもこのニュースを伝え
ました」とだけ言い、それ以上は触れなかったのはとても勇気がいるなって思った。もし、まだニュース23でキャスターをしていたら、小室哲哉のニュースを
どのように伝えたのだろうか。