原発新設なら立地不適格 | hamitellsのブログ

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1月22日の高知新聞、「視標」に原子力コンサルタント、佐藤暁さんの意見が載っていました。

 

原発新設なら立地不適格

伊方3号機差し止め

 

 原子力発電所に対する運転差し止めを巡る、昨今の裁判所による決定。判決に中立的な立場から意見を述べるのは容易ではない。いっそ原発に対する支持、不支持に旗幟鮮明な方が歯切れよく論評できるだろう。今般の四国電力伊方原発3号機の差し止め決定も例外ではない。

 新規建設を進めるか中止するかの議論であればもっと簡単だ。伊方のように近くに大きな断層帯があり、その中に未確認の活断層があるかもしれない場合、また、火山が噴火したときに、たとえ大規模な破局的な噴火でなくても、風に乗って運ばれる火山灰による長期的な影響が不可知な場合を考えよう。

 「佐田岬半島の付け根という位置は住民の非難が難しく、防災上、立地はむちゃではないか」。そんな懸念は、外部から言われるまでもなく四電社内で提起され、ほかの立地候補地を探すことになるだろう。現時点で選ばれる立地とは思えない。

 それが既存原発となると話が変わってくる。原子炉事故についての知識も思慮も不十分だった昔に、巨額を投じて建てたのだ。当事者、関係者に廃炉をためらわせる理由は枚挙にいとまがない

 会社の先輩から引き継いだ資産を、自分の代で失うのは忍びないといった個人的な感情も生まれるだろう。経済的、政治的な思惑、地元のしがらみ、業界との協調への影響ももちろんある。

 だが最近は、そういった‟人情”は排除し、科学的な尺度で原発の安全性、危険性を客観的に評定する米国の考え方に倣い、ドライに論じる雰囲気に変わったようだ。

 しょせんは無理だった「安全神話」に代わる「確率論」の登場である。こんな危険があるではないかと問われたとき、ゼロだと言い張って無理に退けず、コンピューターを駆使して事故の発生確率を出す。10のマイナス何乗と答え、相手方にそれが軽微であることを判断、認識してもらう。

 さらに、こんなバックアップもしてあるから実際はもっと安全だと「深層防護」を付け加える。万一の備えとして「多重防護」や「防災計画」で安心をアピールする。

 日本の電力会社や規制機関に世間を丸め込む悪意があるわけではなく、これぞ良かれと、まさに国際原子力機関(IAEA)の活動と整合したストラテジー(戦略)だ。

 しかし、広島高裁決定に反発する四国電力や政府、原子力規制委員会に理解してほしいのは、原発安全性を確率論的に議論するストラテジーがたとえ現在の国際的な動向であっても、あれほどの事故を経験した日本人の多くには受け入れられないということだ。

 専門家が神のみぞ知る真のリスクを語ろうが、コンピューターで算出しようが、自分と家族の命や生活を託せるほどには信用されていない。それを自覚するべきだ。

 広島高裁決定は、四電による地震、噴火のリスク評価にも、それらを審査した原子力規制委員会の評価にも、納得できないとしている。評価や審査の結果が完全無欠でないことを、裁判所より深く理解し、責任の重大さを恐れているのが関係者の本音ではないのか

 安全性は、確かに相対的には向上した。しかし、不確定なリスクは執拗に付きまとう。「科学を盾に独善的な論理を押し付けるな」。広島高裁、否、国民からそう指摘されたとは思わないだろうか。

 

さとう・さとし

1957年山形県生まれ。山形大卒。2002年まで米ゼネラル・エレクトリック社原子力事業部。新潟、鹿児島両県で原子力関連の外部委員を務める。

 

下の記事の、「きょうの言葉」には・・・

 

細部にとらわれると大局を見逃す

                     黒澤明

 

 映画監督の黒澤明(1910~98年)は、なによりも細部にこだわった人だった。山本周五郎原作の映画「赤ひげ」に登場する療養所のセットはかめらに映らない部分までしっかりと造られ、年季が入った感じを出すために大勢のスタッフやキャストによって毎日ひたすら磨き込まれたというのは、すでに伝説化しているエピソードだ。

 これはセットにかぎった話ではない。シナリオも細部にこだわった。例えば、「「七人の侍」のそもそもの企画は、「ある侍の一日の生活を朝から晩まで克明に追う物語」だったそうだ。一般の侍は朝起きてまずなにをするのか、いつ登城して、夜は何時に寝るのか。そうしたことを克明に調べあげて一遍の作品に仕立てようとしたのだ。この企画は、いくら調べても分からないことが多すぎて、諦めざるを得なかったというが、そんなエピソードからも黒澤の細部へのこだわりがひしひしと伝わってくる。

 しかし黒澤は、重要なのは大局だと説く。 「神は細部に宿る」というように、なにごとにおいても細部まで緻密に仕事をこなすことはとても大切だ。とはいえ大局があってこその細部であり、それを忘れたら、すべてはただの本末転倒に終わってしまうのである。(矢口 誠)

 

 

上下の記事は互いに連関しているような・・・

評価や審査の結果が完全無欠でないことを、裁判所より深く理解し、責任の重大さを恐れているのが電力会社の本音ではないのか。

 「佐田岬半島の付け根という位置は住民の非難が難しく、防災上、立地はむちゃではないか」。そんな懸念は、外部から言われるまでもなく四電社内でも承知しているだろう。

原子炉事故についての知識も思慮も不十分だった昔に、巨額を投じて建てたのだ。当事者、関係者に廃炉をためらわせる理由は枚挙にいとまがない。

原発安全性を確率論的に議論するストラテジーで確率を限りなくゼロに近づけることによって理があるようにみせようとする。

いろいろなしがらみがあるだろうが大局を見失ってはいけない。

 

大局があってこその細部であり、それを忘れたら、すべてはただの本末転倒に終わってしまうのである。

科学を盾に独善的な論理を押し付けるな。

これが結論なのでしょう。