自我を確立しようとするほど、自身の在り方に苛まれる。
目に入れたくない事柄には憤りや呆れを持たず、ただその人物その出来事のありのままを見つめ流す。

自身の寂しさや、周囲が他人に甘えられる素直さを見下して憎む妬みの権化が自我に歪な強さを与えている気もする。
強さの定義も各々の数だけあり、定義すること自体変化の伴う人間としての在り方からは相応しくないと思う。
ひとりで思考の宇宙を漂い孤独感が増していき個の強さと結びつくことも、他人との間に分厚い自我の壁を設けず波のようにただその場をたおやかに行き過ごすのも、どちらも人間の強さである。


その在り方を普段の生活で落とし込んで過ごせていても、自我を育む初歩の段階で削られた部分がいつも父性を求める。
優しい父性ではなく、畏怖と暴力性をも包括した父性。
たおやかさの中に健全な在り方があると理解しながら、この世に産まれ落ちた個として見聞きした全てのものに在り方の根を植えられ、その過程で身に宿した暴力性、支配欲、庇護を擽る対象または憎んでしまう妬んでしまう対象への自身の在り方を否定せず受け入れている人物。

私よりうんとシンプルで賢いお父様像を追うことで、一時の心の安寧を得ている面があり、その自分に酔い続けていたいのか、でもこの広い世界で私を導いてくれる実際に触れ合えるお父様と一瞬でも垣間見えたい。

他人や動物に慈しみを持つことで自分にも慈しみを回している。
だけど、私の心はいつも支配と暴力性を求めています。
私が自身を強く意識して過ごす時、自分が懸想するお父様たり得る以外の他人の批評や物の見方に強く憤りを感じます。
普段はお互いの境遇や環境が当たり前に違い、その考え方振る舞いが全く違うのも気になりません。

私が自我を強く持つ時というのは、目の前の相手を見ずに自分の価値観でしか会話を出来ない人間が、パートナーや自分の子供を生活上や精神面上で追い詰めるような接し方しか出来ない人物を見聞きした時です。
なぜ自身がエゴで攻撃的な人間だと理解もせずに、周りに圧迫感を与えていることも気付けないのか。
他人には外面のため、自身の評価を落とさないために丁寧に接するのに、家族やパートナーには不遜な態度や未熟な甘え方で苦しみの理解を求めるのか。
そういった人間に限り、私は自身のために関わりを一切持ちません。


個人的にはいろんな価値観を持った方との交流は楽しいです。
心が合わなければ互いのために離れるだけ。

私は実際の場では聞き役に徹することが多いです。
相手の話を聴くことこそ、コミュニケーションで最も必要であたたかなものだと信じています。

エゴの塊である私は自身の世界観に自由に酔いしれられる日記やブログのような吐き出し場所で、言葉遊びや思考を泳がせる程度に留まらせるのがちょうど良い気もします。
現実の会話こそ、自身の内側だけに集中して回せるものではありませんから。
外の人そのものとの交流や思考の違いを楽しめることこそ、自分と他者への情愛めいたものに向いていくんだと思います。


でも日常の少し冷たさを感じられる健全な機械的なやり取りが、性愛の理想像と心の元風景を強く持った人の孤独をより意識させる場合もあるのかもしれない。

あらゆる宗教的・業界を問わずあらゆる個人的な考え方を見聞きして行き着いた考えは、精神的な欲望を昇華することや執着を捨てることで、苦しみから解放されるというのはまやかしです。
人は生まれて来たその環境と文化の上で私生活と思考の土台を作る生き物です。

時代を遡って特定の知識分野、著書、宗教、コミュニティの教えを身に宿しても、自身が実際に過ごして培われた気質や考え方に宿ったものから逃れられることは出来ない。
足掻いて楽にしようと試みることは出来ても。
自身が宿した寂しさや苦しさを忘れるために新たな考えに答えを上塗りしても、それは忘れたことにはならない。

忘れるというのは、否定すること。
自身の宿した問題を否定しても、悩みの核が霞むだけです。
1度霞めば心が何に苦しさを感じているのかも掴みにくくなる。
その把握できないモヤモヤや苛立ちが常習化すると、自分が向き合うべき宿した葛藤や苦悩を探り当てるのに長期的に無為な時間を割くことになります。
宗教やスピリチュアルに憩いと救いを見出だす人間がそれです。
欲望に正しい在り方なんて存在しません。
自身を害しても、他人に害しない理性的な厳しさで常に自身と他人の境界線を守る目を持つことが必要なだけで。


だから私は精神的な支柱を求める欲深い人間です。お父様に支配されて抱かれたい。
私も人間ですから、その心の在り方や考え方は常に微かに少しずつ変化している生き物です。
他者に害しない心の風向きを持った人の溢れる世界というのは、儒教と供給の構造を欠いたただの理想論です。
でも、親だけは子供をものとして見るのではなく、その子自身が内側から何を望み何を感じて、何が出来ない、何に悩むのか、何もかもそのままを認めて話を聞いてあげて欲しい。

私がお父様を探すのは、身の内側で怒りをぶつけてくる幼少の自分を宥めるためなのかもしれない。
加えて未熟な依存的な心、身体だけ大人の自分の性愛の欲望も混ざっている。


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