「備中守」が最後の官職だった太田道真が、「故金吾」と呼ばれたとする小宮勝男氏の自耕斎=太田道真説はおかしい。

青木文彦氏のこの指摘に対しては、一応の反論を以前にも書きましたが、いましがた、完璧では?と自賛する反論を思い付きました。

そもそも!
守護としての実態の無い受領名は、漢詩文には登場しないのです!
私が調べた限りですが。

漢詩文に「◯州太守」と出てくる武人は、みな正式に守護だった人物ばかり!

「守」という日本語ならば、同時に複数の「◯◯守」がいても語感的に平気ですが、「◯州太守」という中国語は重いのです。

太守は、本当にその国を統治している唯一の統治者のみが名乗ることを許される重みがあります。

玉隠も、万里集九も、本当に守護職だった人物にしか「◯州太守」は使えなかった。

相模国守護の扇谷上杉氏当主や、伊豆・相模二国を支配した伊勢宗惴しか、太守とは呼べなかったのです。

太田道真が「備中守」であったのは事実ですが、漢詩文では「故備州太守」とは書けない!
「故金吾」としか書けないのです!

ということで、昔の文章を書き換えました。

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小宮氏説については、太田道真の先途は受領名「備中守」であり、官途名の「故金吾」と呼ばれることは考えにくいとの批判(青木氏指摘(イ)ー3)がある。

しかし筆者は、この指摘には首肯できない。
そもそも漢詩文が武家の官位官職を示す際、正式な守護職にない人物の受領名を掲げることは無いのではないだろうか。

「◯◯守」は、漢詩文であれば「◯州太守」である。複数の武人が同一国の名を掲げて、その国の守護でないにも関わらず「◯◯守」と自称し合った中世の武士であるが、「◯州太守」となればその重みが増す。正式な「守護」でない者を「◯州太守」とすることは難しかったのではないだろうか。

太田道真は「備中守」を名乗ったが、詩僧 万里集九は漢詩文において道真のことを「備州太守」とはしていない。万里集九の『梅花無尽蔵』において「太守」とされるのは、例えば「相州太守」とされた扇谷上杉定正であるが、定正は実際に「相模国守護」であった。
また、「信濃守」を名乗った大石重定に請われ、万里集九は「万秀斎詩序」を書いているが、この詩序において大石重定は「武蔵目代大石定重」とされており、「信州太守」とはされていない。

玉隠英璵も同様である。
『玉隠和尚語録』で「太守」とされているのは、扇谷上杉朝良と伊勢宗惴のみであり(後述、追って確認)、いずれも相模国守護、あるいは伊豆国・相模国守護である。

こうした状況を踏まえれば、「備中入道」が先途であった太田道真も、漢詩文において「故備州太守」とは書く訳にはいかない、という状況が想定される。故人道真が漢詩文において、受領名ではなく官途名で書かれたとする小宮氏説は、むしろ妥当性が高いのではないだろうか。

加えて、太田道真は、家督継承期に「右衛門尉」を名乗ったことは一次史料から確認され、さらには「左衛門大夫」をも名乗ったとする『太田潮田系図』等の家伝史料も存在する(註1)。
すなわち、
・「右衛門尉」を以て「故金吾」と呼んだ、
・あるいは道真が非公式に晩年「左衛門大夫」を名乗っていたのを受けて玉隠が「故金吾」とした、
等の主張を可能とする余地は残るのである。