図書館で道野昭壽の『戦國武将 太田資正』を借り、再読しています。


以前読んだ時も思いましたが、資正に関わるあらゆる一次史料を広く押さえている点で、道野昭壽の『戦國武将 太田資正』は偉大な作品です。

道野氏の資正研究に比べたら、チマチマと史料を拾い読みしてブログを書いている私のそれは、“児戯”としか思えなくなります(笑)。

今回、集中的に読んでいるのは、資正の岩槻(岩付)追放以降の苦節の放浪三年間。

道野氏のおかけで、この三年間がかなり見えてきました。

収穫は、流浪の資正を匿った忍の成田氏が、永禄八年九月に北条に攻められこと。そして資正らがこれを撃退したことが、長楽寺日記に記された史実であったと確認できたことです。

長楽寺日記と言えば、永禄七年の資正の岩槻城奪還戦の失敗を記したことで有名です。私も、旧岩槻市史で長楽寺日記の当該箇所を読んでいました

しかし、資正を匿った忍に対する北条側の攻撃のことも記していたとは知りませんでした。(正確には、以前この本を読んで知ったはずなのに忘れていました(笑)。)

道野氏の史料研究の広さ・深さには、感謝しつつ脱帽する他ありません。

しかし、道野氏の太田資正研究にも欠点があります。それは、あまりにも勧善懲悪的な視点から資正を“善”として捉えていること。

これだけの史料研究を行いながら、資正という人物を相対化せず、ひたすらにヒーローとして崇めてしまっているのが、実に勿体ないと思います。

え、お前もそうじゃないか、ですって?

マァ、そうかもしれません。
でも、私としては、資正のダメなところや、賢くともその賢さを時代を逆行しながらも生き延びることに使い果たした愚かさを、捉えたいと思っています。

そうしたアプローチこそ、資正の生涯を、真に“学びシロ”の多いものとするはずと、信じているからです。

道野氏の偉大な研究成果を巨人の肩とし、その肩に乗ることで、巨人にも見えなかった景色を見つけることが、後進の務めです。