両国。



我らがさいたま市の戦国武将・太田資正は、永禄三年十二月に、上杉謙信の関東遠征に呼応して、この地域に進軍したと考えられています。

ここから数キロ北の石浜の寺院が、資正の制札(軍の狼藉を禁じてもらう札) を入手しているためです。

資正の本拠地・岩槻から随分遠いところへ、という気もしますが、足立区の舎人までは岩槻領の一部だったので、当時の感覚としては領国の南端から近隣に進軍した、というものだったのかもしれません。



この両国や少し北の浅草・石浜は、関東地方の一大物流拠点。

海上物流で江戸湾に運び込まれた物資は、この地域で河川物流に積み換えされ、関東内陸に運ばれました。

太田資正がこの地に進軍したのも、物流拠点を押さえる、という意味合いが大きかったことでしょう。

同じく物流拠点であった近隣の葛西も、同時期に制圧しています。

それに加えて、資正には、敵である北条氏に鉄砲を供給していた浅草の鉄砲鍛治を取り込む意図もあったように思えます。


そんな太田資正の両国・浅草・葛西地域への進軍そして支配でしたが、北条氏の反転攻勢の前に、わずか二年で撤退を余儀なくされます。

しかしその直後に、資正は内陸の武州松山城において、当時としては考えられない数量の鉄砲を投入した籠城戦を展開。武田信玄と北条氏康の連合軍五万騎を苦しめ、この二人の名将の心胆を寒からしめることに。

この武州松山城に運び込まれた大量の鉄砲は、浅草から調達されたものではないか、と私は想像しています。

北条氏の反撃の前に劣勢となり、この地を捨てて逃げることになったであろう、資正の家臣。

それが誰かはわかりませんが、その人物がこの地を徹底する時、資正の指示を受けて、ありったけの鉄砲をかき集め、岩槻城に送る光景を、今日は思い浮かべてみました。