史跡で辿る太田資正の生涯その3。

その2では、北条服属時代(天文17年(1548年)~永禄3年(1560年))の岩付領主時代の資正関連史跡を紹介しました。

その3以降では、太田資正が再び北条氏に対して戦いを挑んで行く永禄3年以降の“武州大乱”期の史跡を巡りたいと思います。

(今日の岩付城(岩槻城)の本丸付近)


11.岩付城本丸(埼玉県さいたま市)

永禄3年(1560年)の秋、この時38歳の太田資正は、北条氏康からの書状を受け取ります。その内容は、太田資正に北条氏への忠誠を改めて促し、謀叛を疑わせる動きを止めるよう牽制するものでした。

この時、関東には大きな異変が起きていました。確立して久しかった北条氏の関東覇権に対して、真正面から挑戦し、打倒せんとする勢力が登場したのです。

その勢力を率いていたのは、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)。

この若き合戦の天才は、北条氏に関東を追われ越後に逃れていた元関東統治者・山内上杉憲政の要請を受け、北条氏討伐に動き始めたのです。

永禄3年9月、関東遠征の大事業「越山」が開始。既に上野国(群馬県)の北条方の城が次々攻略されていきました。

太田資正に対する北条氏康の書状は、そうした情勢下で発給されたものでした。


書状の内容から察するに、この時既に、太田資正は長尾景虎(上杉謙信)に連動する動きを見せていたのでしょう。

北条氏康は、北条と太田の20年来の同盟(実際には12年間)や、自身の娘と資正の嫡男・氏資との婚姻等を挙げ、北条氏を裏切るようなことをしてはいけないと説きます。

この時、長尾景虎(上杉謙信)が破竹の勢いで上野国(群馬県)を制しつつあったと言っても、まだその影響範囲は狭く、勢力圏として確立されてもいませんでした。
また、南関東を中枢部として関東を制する北条氏には、まだ、利根川、渡良瀬川、荒川(元荒川)、入間川、多摩川、相模川等の大河が防衛ラインとして残されていました。

関東の戦国領主らの大半、この時点で日和見を決めていましたが、それは、謙信(長尾景虎)の関東遠征がこれらの河川防衛ラインをどこまで突破できるか、見極めようとしていたためでしょう。

(北条氏の河川防衛ライン。『「難攻不落の小田原城」が北条氏を滅ぼした』より)

しかし、もしも太田資正が謙信に付くとなれば、情勢は劇的に変化します。

資正の岩付領は、荒川(元荒川)と入間川に挟まれた領域。この地を統治する資正が裏切れば、利根川、渡良瀬川、荒川(元荒川)の防衛ラインが内側から崩されることになるからです。

北条氏の中枢部は、一気に丸裸になります。
謙信は圧倒的に有利になり、日和見を決めていた関東の諸領主も、北条氏を見限り、謙信になびくことになるのは明らかでした。

北条氏康が、焦燥感を持って資正の翻意を覆そうとしたのは間違い無いでしょう。その書状は、長く、そして切々と資正に同盟維持を訴えています。


この書状を、資正はどこで読んだか?

おそらくは居城・岩付城(江戸時代からは岩槻城、埼玉県さいたま市岩槻区)の本丸でしょう。

今日残る岩槻城の地形は、江戸時代のものですが、本丸付近の縄張りは戦国時代のものを大きく改修せずそのまま受け継いだとされています。資正時代の本丸も、おそらく同じ場所にあったはずです。

今日、この岩付城(岩槻城)本丸跡には、県道2号線が通り、簡単な石碑が道路南側のガソリンスタンドに立つ以外、史跡らしいものは何も残されていません。

しかし、県道2号線北側のマミーマートの乗る地形は、江戸時代の岩槻城絵図が示す本丸の地形とほぼ一致します。



周囲の住宅地から一段高く、盛り上がった土地に広がるマミーマートの駐車場。そこは、ほぼそのまま、かつての本丸の縄張りだと見ることができるでしょう。

マミーマートには碑等は何もありません。しかし、碑のある対面のガソリンスタンドよりも、かつての本丸を思わせる地形が残されていると言えます。

岩付城(岩槻城)本丸に想いを馳せたい方は、ぜひガソリンスタンドだけでなく、マミーマートの駐車場にも足を運んでみてください。

そして、北条氏康からの謀叛を牽制する書状をそこで読んだであろう太田資正の姿も、どうか思い浮かべてみてください。


さて、北条氏康から書状で牽制を受けた資正でしたが、その気持ちは固まっていました。

書状を受け取った2ヶ月後、資正は、怒濤の進軍を、北条氏領国の中枢部である武蔵国南部に仕掛けていったのです。

“武州大乱”の始まりです。



もう2、3個、史跡紹介をしようと思いましたが、長くなったのでここまで。

続く予定です(笑)。