国防戦略の専門家であり実務家でもあるエドワード・ルトワックの大著『ビザンツ帝国の大戦略 The grand strategy of Byzantine empire』。この本を読み進める中で、「戦略的奥行き strategic depth」という概念を知りました。

ルトワックは、この概念でビザンツ帝国と帝都コンスタンチノープルの防衛力を語ります(その概要は後述します)。

私はその一節を楽しんで読みながら、同時に、全く別のことに思いを馳せていました。
時間的にも空間的にも、ビザンツ帝国とは全く無関係の世界に、よく似た例があるではないか、と考えていたのです。

私が、思い浮かべていたのは、我が国戦国時代の名城、小田原城でした。

【妄想:北条氏が小田原から“遷都”していたら?】


【ルトワック『ビザンツ帝国の大戦略(表紙)】




1.名城・小田原城はしばしば包囲された

名城・小田原城は、言わずと知れた、戦国時代の関東の覇者・後北条氏の本拠。

城下町全体を堀で囲む総構(惣堀、大構とも)や、箱根の急峻な山々、そして眼前の海に守られたこの城が、難攻不落を誇ったことはよく知られています。

かつて上杉謙信や武田信玄がこの城を包囲しましたが、戦国最強の称号を競い合うこの二人の戦上手も、この堅城を前に攻略を諦め、撤退しています。

謙信・信玄も攻め落とせなかった天下の名城、ということになりますが、視点を変えると、別の見え方が姿を現します。

即ち、北条氏ほどの大大名の本拠にしては、敵からの直接包囲に遭いすぎているのではないか?という疑問が湧いてくるのです。



小田原城が包囲された歴史を振り返ります。

  • 永禄4年(1561年)に、上杉謙信(当時はまだ長尾景虎)の関東遠征・第一次「越山」の際に、攻め込まれて包囲されました。
  • 永禄12年(1569年)には、武田信玄が碓氷峠付近から関東に入り、小田原城まで攻め上がり、数日ながら、この城を包囲しました。
  • そして、天正18年(1590年)には、天下人 豊臣秀吉による我が国未曾有の規模の大包囲によって無血開城に追い込まれていきます。


北条氏も、これら外敵を領国の周縁部で食い止めようとしますが、それが叶わず、小田原城の城郭としての堅牢性に籠城に頼らざるを得なくなった。そんな局面が三度あったことがわかります。

三度なら少ない、と言えるかもしれませんが、越後上杉や甲斐武田、駿河今川は、防衛体制が崩壊した国の終末期でなければ、本拠まで攻め込まれることはありませんでした。

北条氏は、勢い盛んな時に外敵の大遠征によって本拠地を包囲され、籠城戦の後、これを撃退しています。日本の戦国期にはこうした例は、それほど多く無いのでは無いでしょうか。

むしろ、小田原城が難攻不落の名城と称えられたのは、この城がそれだけ実際に包囲戦を経験したからであり、またこの城の堅牢性に頼らざるを得なかった北条氏の事情故だった、と言えるかもしれません。

そこからは、

  1. そもそも北条氏の領国は、外敵によって中枢部まで攻め込み易い特徴を持っていた(ルトワック曰くの「戦略的奥行き」に欠ける)のではないか、
  2. それ故に小田原城は、当時他に類を見ないレベルで要塞都市化されたのではないか、

という仮説が浮かんでくるのです。


2.「戦略的奥行き」という概念

外敵が、ある国の中枢部まで攻め込むことの困難さ。 その国が持つある種の奥行きを、国家戦略の専門家にして実務家であるエドワード・ルトワックは、「戦略的奥行き」という概念で整理しています。

戦略的奥行きを構成するのは、

  • 周縁部から中枢部までの地理的な距離
  • 越えなければならない天然の地形
  • 人が作った砦や城壁等の人工の障害物
  • それらを機能させる人間集団側のシステム

など。
それらすべてを総合した、外部からの攻め込み難さが、ルトワックが言う「戦略的奥行き strategic depth」です。

古代ローマであれば、ライン川・ドナウ川という大河を利用した防衛ラインや、イタリアに入るためには越えねばならないアルプス山脈。そして、イタリア半島の街道沿いの城塞都市が、この大帝国に「戦略的奥行き」を与えていました。
カエサルが、都市ローマの城壁を取り払ったのも、この「戦略的奥行き」があってのことです。
(カエサルの防衛思想は、武田信玄の「人は石垣・・・」に通じるところがあると感じます)

ナポレオンとヒトラーを跳ね返したロシア帝国には、広大な領土、即ち地理的な距離・広さに依った「戦略的奥行き」がありました。

アジアで考えれば、北方遊牧民の南進に脅かされた中国は、しばしば、遊牧民が支配する長江以北と、漢民族王朝が残る長江以南という構図を取りました。

長江以北が遊牧民に支配されたは、北方の草原と“地続き”だったために、遊牧民の攻撃に対して「戦略的奥行き」が欠如していたためです。これを補うために、万里の長城が築かれ、人工物によって戦略的奥行きを増す試みがなされましたが、財政負担の大きいこの策は、王朝最盛期にのみ効果を発揮するに留まりました。

対して長江以南は、大河長江と、騎馬部隊を阻む湿地帯のおかげで、遊牧民に対して実に深い「戦略的奥行き」を有していたことになります。


3.戦略的奥行きに欠けた国は、首都を要塞化する

ルトワックは、『ビザンツ帝国の大戦略 The grandstrategy of Byzantine empire 』の中で、千年の命脈を保った大帝国ビザンツが、実は帝国領国全体では、「戦略的奥行き」が乏しい存在だったと指摘してきます。

ビザンツ帝国の領土は、中央アジアの草原に対して無防備でした。
草原から迫る遊牧民が帝都コンスタンチノープルを目指した際、彼らを食い止める大河も、山脈も、湿地帯も、ビザンツ帝国の領土にはなかったのです。
それは、中東から帝都を狙う、アラブやペルシャから見ても同じでした。

力を蓄えた外敵は、アナトリア半島を易々と横断・縦断し、あるいはバルカン半島を南下して、帝都コンスタンチノープルに迫ったのです。

この「戦略的奥行き」の乏しさを補ったのが、帝都コンスタンチノープルの要塞都市としての堅牢さでした。

ビザンツ帝国は、自らの帝都を、かの有名な三重城壁「テオドシウスの壁」で囲んで守りました。さらに、海からの補給によって、どれだけ長期間、敵に包囲されようとも耐えられるロジスティックスを確立していました。

敵は、海からコンスタンチノープルを包囲することもありましたが、周辺の複雑な海流と風は、ビザンツ海軍に有利に働きます。敵艦隊は、この海流と風に翻弄され、数に勝っていた場合でも、最終的にはビザンツ海軍に押されていったのです。

地中海沿岸と黒海沿岸と海で繋がっていたコンスタンチノープルは、理論上、周辺海域の制海圏さえ押さえれば、上記全域を敵が掌握しない限り、補給が得られたことになります。

コンスタンチノープルは見た目は「点」でありながら、地中海・黒海全域を後背地とする奥行きある都だったのです。

ルトワックの主張を整理すれば、こうなるでしょうか?

  • ビザンツ帝国は、領土が「戦略的奥行き」を持たない不利を自覚していたからこそ、帝都コンスタンチノープルを他に類例を見ない完璧な要塞都市として築き上げた。
  • むしろ敵に帝都包囲を許すことで、必ず勝てる籠城戦で敵を疲弊させる作戦を好んだ。
  • 敵はコンスタンチノープルを包囲する中でむしろ自分達が困窮し、やがて退却をせざるを得なかった。(そしてこの退却の時に、サッカーの“カウンター”のごとく、反撃に出たビザンツ軍が敵に致命打を与えることもあった)
  • この完成された防衛策が、この帝国の千年の寿命を支えた重要な鍵だった。


攻め込まれるやすい国土と、堅牢な要塞都市として仕上げられた首都。そしと、その堅牢な首都の防御力を最大限に活用した外敵撃退策。

この戦略的奥行きに欠けるビザンツ帝国と堅牢なる帝都コンスタンチノープルという構図をルトワックに教えられた時、私は連想したのです。

ビザンツ帝国とコンスタンチノープルの関係は、上で仮説として挙げた、攻め込まれやすい北条氏領国と、それゆえに要塞都市化された小田原城の関係に、通じるのではないか、と。


4.北条氏領国の「戦略的奥行き」

では、北条氏の領国は、本当に「戦略的奥行き」に欠けていたのか?  

謙信、信玄、秀吉が、それぞれ何故、小田原城包囲を実現できたのかを見ていくことで、この疑問を考えていこうと思います。


4ー①.謙信はなぜ小田原城を包囲できたのか?

上杉謙信(当時は長尾景虎)が、小田原城を包囲したのは、永禄4年(1561年)3月のこと。前年秋から始まった、越後から関東に攻め込む大遠征「越山」の最終局面としての小田原城包囲でした。

この時、遠く越後から遠征してきた謙信にまんまと本拠地まで攻め込まれてしまった北条氏。しかし、本来であれば、北条氏の領国は、越後からの遠征に対しては「戦略的奥行き」を有しているはずでした。

関東地方は、北と西を山脈で、東と南を海で閉じられた巨大な平野です。この平野はあまりに広大で平坦なため、この地に入り込んだ敵の進行を阻止する地形の高低差は、ほとんどありません。
しかし、敵の進軍を防ぐ天然の障壁がなかったかと言えば、そうではありません。

関東地方には、天然の障壁として機能する、大きな川があったのです。

越後から三国峠周辺を踏破して関東に入る(『真田丸』で話題の沼田のあたりに出ます)。そこから更に南下して小田原を攻めとすると、越えねばならない大きな川がいくつかあります。

  • 利根川(言わずと知れた関東最大の河川。戦国時代は銚子ではなく江戸湾に注ぐ川筋。関東を東西に分ける大河でした)
  • 荒川(戦国時代の荒川は、現在の荒川上流+今日の元荒川。現在より巨大な“荒れる川”でした)
  • 入間川(現在、荒川と入間川が合流した後の川を荒川と呼びますが、当時はこの合流後の荒川も入間川でした)
  • 多摩川
  • 相模川


上杉謙信が、関東遠征を開始した時、すでに北条氏の支配は、上野国(群馬県)の北端まで伸びていました。
即ち、上に挙げた川は、いずれも北条氏領国内に存在し、侵入してきた敵に対して天然の防波堤となるはずでした。そして、小田原城の北条氏に十分な「戦略的奥行き」を与えるはずでした。

【画像】北条氏の河川防衛ライン


なぜ、そうならなかったのか?

答えは簡単です。
利根川や荒川以南の北条氏配下の地域領主(国衆)が、北条氏を裏切り、謙信についたからです。

実は、関東遠征「越山」の第一回で、謙信が力攻めで落とした北条氏側の城は多くありません。
謙信が実力行使によって落としたのは、沼田周辺の城のみ。それらの城を落としてからは、北条氏に服属してい上野国(群馬県)や武蔵国北部(埼玉県)の地域領主らが、次々と謙信に鞍替えをしていったのです。

この地域領主の鞍替えによって、利根川防衛ラインと荒川防衛ラインは、崩れます。

利根川防衛ラインは、利根川以南の有力領主である深谷(埼玉県深谷市)の深谷上杉氏や忍(埼玉県行田市)の成田氏が、謙信に衝くことで事実上、崩壊します。

荒川防衛ラインは、荒川以南に位置していた岩付(埼玉県さいたま市岩槻区)の領主・太田資正が謙信に寝返ったことで、やはり崩れ去ったのです。

しかも太田資正は、進んで北条氏攻めを行い、荒川に沿って南下し、現在の浅草周辺や品川周辺にまで進軍しました。また、入間川防衛ラインの拠点であった河越(埼玉県川越市)の後背地である所沢付近への進軍しています。

これは、入間川防衛ラインの“銃後”への攻撃であり、事実上、同防衛ラインを背後から脅かすものでした。また、当時に品川は、西国の米に頼る北条氏の海上物流の拠点。資正の品川攻撃には、この海上物流を阻害する、という目的もあったと考えられます。

 

【関連】


時の北条氏当主・北条氏康が、入間川防衛ラインの拠点であった河越(埼玉県川越市)まで赴き、謙信を迎撃せんとしたものの、結局は戦わず退却したのは、このためです。

入間川防衛ラインまで崩れてしまえば、入間川以北の地域領主が謙信側につき、軍勢は膨れ上がりました。以降の多摩川防衛ライン、相模川防衛ラインは、この大軍勢が悠々と越えていくことになっていくのでした。

【画像】岩付(岩槻)の太田資正、荒川&入間川防衛ラインを崩す


結局、北条氏は、地理的地形的には存在していた戦略的奥行きを、味方衆の裏切りによって機能させることができなかったのです。
武蔵国北部(埼玉県)以北の地域領主は、いずれも10年前までは北条氏と熾烈な敵対関係にありました。盟主である関東管領・山内上杉氏が北条氏に敗れて関東を追われたために北条氏に服属していたものの、北条氏が課す軍役などに不満を溜めていました。

その10年前までの対立構図と足元での不満が、10年間の服属期間だけでは、彼らを完全に親北条氏とすることを妨げなかったのです。かつての盟主・山内上杉氏が、長尾景虎(上杉謙信)という若き戦の天才と共に関東に復帰した時、彼らが北条氏を裏切ったのは、当然の行為だったとすら言えるかもしれません。(ちなみに、その後、上杉謙信が、関東に戦乱をもたらすだけの疫病神であることが露見すると、これら地域領主の多くが北条氏に再服従します)

しかし、北条氏は反転攻勢に出ます。
第一次「越山」以降、北条氏は、裏切ったかつての味方衆を粛清・再服属させることで、守りを固めていくのです。

注目すべきは、荒川防衛ラインと入間川防衛ラインを一気に崩壊させることのできる位置にいた、岩付の太田氏との戦い。北条氏は、約四年間にわたる連戦の末、太田資正を排除し、親北条であった息子の太田氏資を岩付領主に据えることに成功します。

(この四年間の攻防については、以前まとめたことがあります⇒「南シナ海判決後の日中関係と戦国武将・太田資正の教訓」)

これ以降、謙信は10回近く関東に遠征を繰り返しましたが、利根川は越えられたものの、荒川防衛ラインを越えることはできませんでした(最終的には利根川すら渡河できなくなります)。

謙信と北条氏の抗争は、利根川以南~荒川以北がその舞台となり、小田原の安全は保たれるようになったのです。

結論として、北条氏領国は、上杉謙信の関東遠征に対しては、本来、十分なレベルの戦略的奥行きを有していたと言えそうです。永禄4年の第一次越山の時のみ謙信が小田原城を包囲できたのは、それが最初の一回目だったが故。

しかし、面白いことですが、北条氏が関東統治をかなり回復した永禄9年(1566年)頃から、小田原城の大改修が始まったことを伺わせる史料があるそうです。
もしかすると、謙信による小田原城包囲が、北条氏にとっては一種のトラウマとなり、小田原城のさらなる要塞都市化を促すことになったのかもしれません。


4ー②.信玄はなぜ小田原城を包囲できたのか?

謙信の小田原城包囲は、北条氏領国が本来持つ戦略的奥行き(複数の大河による防衛ラインの存在)が、人心の離反によって機能し切れない隙をついたものでした。

北条氏が反転攻勢に出て、防衛ラインを担う地域をより強固に押さえます。時には地域領主の代替わり、時には北条氏の子息の養子入れ、時には北条氏直臣による直接支配といった手を打つことで。
これにより、“人心”の問題は解決します。以降、関東に攻め入った謙信が、利根川付近でしか戦えなくなったことからも、それは明らかです。

では、永禄12年(1569年)の武田信玄の小田原城包囲はなぜ実現したのでしょうか。

私は、その時点で北条氏が築き上げていた防衛ラインが、西からの攻撃に無力だったからだと考えます。

永禄12年の信玄の小田原城攻撃ルートは、

  • 信濃国(長野県)から碓氷峠付近を通って上野国(群馬県)西部に侵入、
  • その後、秩父や多摩の山々の際を通り、北条氏邦、北条氏照らを撃破して南下、
  • 小田原城に至る

というものです。

【画像】武田信玄の小田原攻めルート


北条氏照・氏邦は、政治・軍事の両面において能力を発揮していた異母兄弟。この二人の居城を抜いて小田原城に迫ることができた武田信玄は、やはり、合戦上手としての才能が傑出していたことが伺われます。

【追記】
コメント欄で、盟友ジャワさんが指摘してくれたことですが、この時の信玄は直前まで、伊豆・三島方面から小田原を攻撃する姿勢を見せていました。北条氏の警戒も当然、箱根越えを狙うであろう信玄に向いていました。
信濃(長野県)を経由して上野(群馬県)から小田原を急襲したこの時の信玄の進軍は、北条氏の裏をかくもの。北条氏側も、まさか信玄がこんな遠回りルートを通って小田原城まで攻め寄せようとは想定ていなかったはずです。
関東の名将であった氏照・氏邦が信玄に易々と“抜かれた”のは、信玄の敵の裏をかく大胆な戦術があったためと言えます。
【追記ここまで】

しかし、信玄の才覚や武田勢の精強さに加えて、私は、北条氏領国の戦略的奥行きの課題を見ます。

信玄のルートは、実は関東に入った時点で、すでに利根川防衛ラインの内側。越後から来る謙信と違い、信濃から来る信玄は、謙信が苦しんだ利根川防衛ラインを最初から“飛ばす”ことが可能なのです。

次に信玄を止められるのは、荒川防衛ライン。
ここには、地域領主・藤田氏に養子入りした北条氏邦がいましたが、信玄を止められませんでした。

その理由の一端は、当時の藤田氏の城塞のあり方にもあったと考えられます。

当時の藤田氏当主としての北条氏邦が本拠を置いた城は、花園城でした。
藤田氏代々の城であった花園城ですが、その位置は、荒川北岸。しかも秩父盆地に向けて伸びる隘路の途中に位置していました。

これは、花園城が、

  • 南から北に攻める敵を食い止める、
  • 関東平野から秩父盆地を攻める敵を食い止める、

という機能を課された城であったことの証左です。

北条氏に服属するまでは、上野国(群馬県)にいた関東管領・山内上杉家の被官だった藤田氏にとって、南からの敵(即ちかつての北条氏)を迎撃するために荒川の北岸に城を構えるのは、ある意味、当然のことでした。

しかし、今や藤田氏が、北条氏に服属し、北からの敵を迎え撃つ立場となると、この花園城の地勢は、逆に仇になります。花園城は、秩父の山々に沿って(しかし秩父盆地には目もくれず進む)北から南に進軍する信玄を止める防波堤とはならなかったのです。

ここを越えると、信玄の信玄の南下を止める天然の防波堤は無くなります。荒川以外の川は、上流すぎて武田勢を止められません。信玄は、北条氏照の滝山城も抜き、小田原まで一気に進軍して、小田原城を包囲しました。
北条氏は、再び、遠方からの遠征軍によって、本拠地まで攻め込まれてしまったのです。

秩父・多摩の山々と関東平野の「際」は、多少の険しさはあるものの、実は大河に邪魔されずに進軍する好地です。(今日の圏央道の少し内側、国道16号線の少し外側です)
北条氏自身、関東に勢力を伸ばす際には、相模国(神奈川県)から武蔵野台地を制すると、そこからは多摩・秩父の山々と関東平野の「際」を伝うように北に勢力を伸ばしています。(由井大石家への北条氏照の養子入り、花園家への北条氏邦の養子入りがこれに当たります)

 

上で紹介した永禄4年の謙信の小田原城攻めに対する反転攻勢も、このルートを軸に展開されています。(参照⇒「地図:永禄四年夏~秋の北条氏の反転攻勢(勝沼・花園の制圧)」)



つまり、北条氏は、自身が関東制圧のために使った回廊としての多摩・秩父の山々と関東平野の「際」を、今度は武田信玄の南下で使われたことになります。

この「際」の“回廊性”を理解していたはずの北条氏が、信玄を止める最重要地点である荒川防衛ラインを、十分に要塞化していなかったこと。それは、北条氏の落ち度です。この後、北条氏邦は、居城を荒川北岸の花園城から、荒川南岸の鉢形城に移していますし、それによって、永禄12年の信玄と同じルートで、領国深くまで攻め込まれることはなくなります。

信玄が敵となると考えれば当然やっておくべきことを、やっていなかったことは、この素早い対応策の遂行から明らかです。

【画像】荒川防衛ラインと花園城、鉢形城


やるべきこと(鉢形城を中心とした荒川防衛ラインの強化)は、分かっていました。

このやるべきことを怠った手抜かりこそ、北条氏領国が、信玄に対して、「戦略的奥行き」を持てなかった理由でしょう。

しかし、この手抜かりにも、同情の余地ははあります。
北条氏は、あまりに長く、謙信と戦い過ぎたのです。
北条氏が臨んでいたのは、越後から沼田を経て利根川のほとりにやってくる謙信との抗争でした。しかも、謙信の味方は、常陸(茨城県)の佐竹氏であり、房総(千葉県南部)の里見氏でした。

長らく同盟相手だった信玄による信濃からの攻撃は、端から想定外であり、この想定外を想定した防衛体制の確立を行う余裕は、無かったのです。
(上述の【追記】の通り、対信玄防衛戦の戦場は伊豆方面と目されていたことも響いていたことでしょう)

北条氏領国が、戦略的奥行きを発揮できなかったのは、

  1. 謙信の時は、その進軍を妨げる複数の河川を使った多重の防衛ラインがあったものの、それを担う(かつて敵だった)味方衆の人心の離反によりそれが崩壊したため
  2. 信玄の時は、やはりその進軍を妨げる防衛ライン構築に適した地形はあった(荒川上流)ものの、その地形を城や砦などの人工物で補強し、強固な防衛ラインとすることを怠っていたため、

と、まとめられるでしょう。

長く同盟相手であった信玄ですら敵となりうる、と冷徹に考え、越後から攻め寄せる謙信だけでなく、信濃から攻めてくるであろう信玄をも想定した防衛ラインを築いていれば、たやすく小田原城まで攻め込まれることはなかったはず。

惜しい、と思います。

謙信のケースも、信玄のケースも、実は、北条氏領国は、本来はより広い「戦略的奥行き」を有することができたはずなのです。


4ー③.秀吉はなぜ小田原城を包囲できたのか?

小田原城が最後に包囲されたのは、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の北条征伐です。

既に、日本の大半を手中に収めていた天下人秀吉をつかまえて、「なぜ小田原城を包囲できたき?」という問うことは、無意味です。日本中の軍事力とロジスティックスを総動員できた秀吉にとって、一地方大名だった北条氏の本拠を包囲することは、できて当たり前のこと。できないはずが無いのです。

ただし、こう言い直せば、意味のある問い掛けになるかもしれません。

「秀吉は、なぜもああも簡単に、小田原城を包囲できたのか?」と。

秀吉の北条攻めは、かなり早い段階で小田原城の包囲に成功しています。同時に行われた北条氏支城への攻撃は、その多くが、小田原城完全包囲の後に行われている程です。

秀吉勢は、北条氏の支城を一つ一つ落として、中枢部である小田原城に迫ったのではありませんでした。
ほぼ真っ先に、小田原城包囲を果たし、その後余裕を持って、各地の支城を落として行ったのです。

秀吉にそれを許したのは、小田原城の位置でしょう。
東海道を進む秀吉勢本体にとって、最前線の山中城さえ落としてしまえば、即座にたどり着いてしまう位置に、小田原城はありました。

領国の中枢である本拠地が、領国内のほとんどの城よりも、敵との国境に近かったのです。

 

【図】小田原城は、駿河の敵対勢力に対する防衛力に乏しい


もしも、この時の北条氏の本拠地が領土の中央にあったなら、山中城陥落の後も秀吉勢の進軍には障害が残り、北条氏側は体勢建て直しの時間を得ることができたでしょう。

これが、秀吉がああも簡単に小田原城を包囲できた理由です。

しかし、北条氏を愚かと簡単に笑うことはできません。
上のような弱点を踏まえても、本拠が小田原に置かれたことには必然性があったからです。

 


4ー④.「難攻不落の小田原城」が北条氏の判断を誤らせた


かつて小田原は、北条氏にとってもっとも「戦略的奥行き」を確保しやすい場所だったのです。

もともと北条氏は、駿河今川の配下として勢力を伊豆や相模に広げる存在でした。
駿河今川は、言わば北条氏の“ケツ持ち“”であり、絶対的な後背地です。

相模(神奈川県)や武蔵(東京都・埼玉県)に勢力を広げる北条氏にとって、紛争多き国境から一番奥の「戦略的奥行き」に最も恵まれた場所が小田原だったと言えます。

悲劇だったのは、その頼れる駿河今川が滅亡し、駿河が、甲斐武田や三河徳川の草狩り場になってしまったこと。
今川氏の衰退により、小田原は、最も危険な国境から最も遠い本拠という性格を失い、最も危険な国境に最も近い本拠に変わってしまったのです。

北条氏が今川氏の旧領を押さえることがでればよかったのですが、それも叶いませんでした。

最初は、武田信玄、次に武田勝頼、最後に徳川家康。北条氏が戦わねばならない相手は、みな野戦に長けた強敵。伊豆や三島付近を維持するのが精一杯だったのも、宜なること。仕方ありません。

ある意味では、小牧長久手の合戦の前夜、秀吉と家康が対立し、北条氏が家康と結んだ時期が、北条氏には最も安泰な時期だったのかもしれません。
小田原城は、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃を押さえる徳川家をかつての今川家以上の後背地として、盾とすることができたのですから。

そう考えれば、駿河を治める家康が、秀吉た屈した時点で、小田原城は、“詰み”に入ったのでしょう。

北条氏も、そこを理解していました。
だからこそ、秀吉の北条征伐の前に、もとから堅城だった小田原城をさらに要塞都市化させ、前線の山中城を大規模に改修したのです。

今川家滅亡以降、北条氏領国は、戦略的奥行きを大幅に失っていた。そのことが、秀吉も驚嘆したと言われる小田原城の要塞都市化を生んだのだ、と言えそうです。

しかし、小田原城は、残念ながら、コンスタンチノープルのように敵の包囲を撃退できませんでした。
その理由は、

  • 海の助けがコンスタンチノープルほどになかったこと。(コンスタンチノープルには敵海軍を困らせるボスフォラス海峡の複雑な海流と風がありました)
  • 秀吉があまりに巨大すぎて、後詰め(籠城に対する外部からの救援)の勢力が無かったこと(ビザンツ帝国の背後には、常に広大なユーラシア大陸の遊牧民や戦意溢れた中世西欧の騎士がいました)
  • 謙信や信玄と籠城戦を行う際に鍵となった西国からの補給が、西国をすべて押さえた秀吉によって封じられたこと(コンスタンチノープルは、地中海と黒海の沿岸全てを敵に押さえられなければ、海上ロジスティックスによる補給が期待できました)

等によるもの。

小田原城は、コンスタンチノープル程の難攻不落の条件には恵まれていなれなかったのです。

コンスタンチノープル程の軍事的な堅牢性とロジスティックス面の奥行きをもたなかった小田原城に、コンスタンチノープル並の頼り方をせざるを得ない状況まで追い込まれたのが、北条氏の敗因だったのではないでしょうか。

私には、謙信や信玄を撃退したという小田原城“神話”が、北条氏を誤らせたように思えます。

謙信や信玄の時代には、かの有名な総構(城を城下町ごと守る巨大な堀。惣堀、大構とも)は無かったのです。

総構が築かれ、小田原城が、日本史上かつて無かった巨大な要塞都市に変えたのは、秀吉の北条征伐の直前のこと。

謙信・信玄が、小田原城を攻めた時、この城の攻略を諦めたのは、城そのものの堅さ以上に、後詰めの存在でした。

謙信は小田原城への今川氏や信玄の加勢を恐れ、信玄もまた、途中で“抜いてきた”北条氏照、氏邦兄弟の追撃を恐れて、小田原城包囲の陣を解いています。

同盟国や領内の味方の動的な援軍こそが小田原城を助けたのです。

秀吉の北条征伐の際、外に同盟国が無く、領内の味方もみな籠城するという状況では、勝ちようがありません。

真に頼れるのは、小田原城の要塞都市として堅牢性では、なかったのです。

にもかかわらず、北条氏が要塞都市としての小田原城に賭けることになったのは
、謙信・信玄の包囲を跳ね返す中で物理的強化されていった小田原城の要塞性と、心理的に増幅していった難攻不落神話のためではないでしょうか。

敢えて言い切れば、
『難攻不落のコンスタンチノープルは、ビザンツ帝国を千年帝国たらしめたが、「難攻不落の小田原城」は、北条氏を滅亡に導いた』
と、言えるのではないかと私は思います。


5.ならば北条氏はどうすればよかったのか?

では、北条氏はどうすればよかったのか?

小田原城の要塞化以外に、取れる手だてはあったのか?

以下は、歴史のイフの仮説です。

歴史を結果から見た逆算ですが、北条氏には、本拠を小田原城から江戸城に移すという選択肢もあったように思えます。

江戸は、北条氏滅亡の後に徳川家康が入った際に、ただの寒村であったとする逸話もありますが、実際には北条氏時代から有数の支城の一つでした。

江戸城は、重臣である遠山氏が、房総半島の強敵・里見氏に睨みを効かせる拠点であり、その里見氏が北条氏の軍門に下ってからは、北条氏政が東関東統治のために数年以上滞在した政治・軍事の出張所でもありました。(参照⇒「江戸基点の関東統治は北条氏政が創った」)

本拠となるだけのインフラは、当時からあったはずです。

しかも、今川氏が滅び、駿河の大半を武田信玄に奪われた永禄12年(1569年)頃から、豊臣秀吉の北条征伐の天正18年(1590年)の間には、20年の月日があります。

早めに本拠を移していれば、江戸城のインフラ整備は、さらに進められたはずです。

【図】北条氏が江戸に“遷都”していたら?



では、北条氏が、江戸に遷都していたどうなったか?

まず、西からの攻めに対して、「戦略的奥行き」が厚みを増します。

敵が駿河を押さえて東進しても、その前には、箱根の山のみならず、相模川や多摩川が控えています。江戸城が本拠ならば、西からの攻めに対しても、河川防衛ラインが構築できることになります。
小田原城を、箱根越えを果たした敵の迎撃にも使えます。

【図】江戸城の防衛ライン



秀吉の小田原城包囲で、大きな役割を果たした西国の水軍も、江戸城が本拠であれば、迎撃できた可能性があります。

すでに北条氏配下となっていた、水軍で知られる里見氏。この里見氏の水軍と連携し、江戸湾を封鎖するのです。横須賀⇔鋸山あたりを海上防衛ラインとすることで、遠地から来た西国水軍を迎撃することはできた可能性があります。

(英傑・里見義弘の死後、お家騒動で弱体化した里見氏にこれを期待できたか?という問題はありますが・・・)

むろん、江戸湾封鎖は、江戸城が江戸湾外から物質補給をする道を自ら閉ざすことを意味します。西国の米に頼る構図のあった北条氏にとっては自殺行為でもあります。

しかし、関東の生産力を、江戸湾内の海上ロジスティックス入間川、荒川、利根川の河川ロジスティックスを駆使して江戸に集約することで、西国の米に頼らない経済体制を構築できた可能性はあるのではないか・・・
という問いを、投げ掛けてみたいと思います。

それでも、江戸城への北条氏の“遷都”には、大きな弱点があります。

それは、関東平野内にしぶとく残っていた敵対勢力、即ち常陸の佐竹氏の攻撃に晒されやすくなることです。
当時の利根川は、江戸湾に注ぎ込んでいます。利根川は確かに、佐竹氏に対する防衛ラインになりますが、このラインは距離的に江戸に近すぎるのです。

それでも、西国の敵(武田信玄→武田勝頼→徳川家康→豊臣秀吉)に比べれば、佐竹氏は小粒。西からの攻撃への「戦略的奥行き」の増強は、佐竹氏への「戦略的な奥行き」の減損を考えても、トータルでの北条氏領国の「戦略的奥行き」を増したのではないでしょうか?

もしも、武田信玄の小田原城攻めの後で、北条氏が江戸への“遷都”を進めていたら?
いや、当時はまだ里見氏が敵として江戸城近くまで攻め込む力を残していたので、同氏が降服する天正5年頃がよいかもしれません。
いずれにせよ、秀吉の小田原城包囲の10年前に、江戸城に本拠を移していたら、北条氏の運命は、変わっていたかもしれない。
私には、そう思えます。

やるべきは、点としての小田原城の要塞都市化ではなかった。

領国中央への“遷都”と新都を中心としたより「戦略的奥行き」のある防衛体制の構築だったのだ、と。

 

 

6.徳川政権の関東改革は、北条氏滅亡に学んだ

このダラダラとやたらに長い歴史考察の最後で、徳川家康の関東改革にも少し触れたいと思います。

家康が、関東平野の治水のために、荒川を西に移し、利根川を東に移したのは有名です。

この治水は、人口の割に農業生産力が乏しかった関東の生産力を一気に高めました。それは関東という巨大な盆地平野全体を要塞化しなければならないような、徳川政権の危機の時には、域外との物流を絶っても飢えない生産体制を作る上で、大きな意味があったのでしょう。

また、竹村公太郎氏が『日本史の謎は「地形」で解ける 文明・文化編』で指摘している通り、大河・利根川を東に移すことは、江戸から近すぎた河川防衛ラインを、より遠くに持っていく意味もあったはずです。

徳川家康の関東改革は、「北条氏が秀吉に滅ぼされないためにはどうすればよかったのか?」を、家康と彼のブレーン達が考え抜いた結果なのかもしれない。

今回、小田原城の「戦略的奥行き Strategic depth」を考えたことで、そんな風にも思えてきました。

【図】利根川東遷と江戸防衛


素人の妄想たっぷりの歴史考察でした。

(おしまい)