史跡で辿る太田資正の生涯その2。

その1は、難波田家への婿入り(天文7年頃、16歳)から、北条氏への服属(天文17年、26歳)まで。

今回は、北条氏服属の岩付領主時代の資正を、所縁の地で追います。


6.慈恩寺(埼玉県さいたま市)

埼玉県さいたま市岩槻区の慈恩寺は、数奇な経緯を経て三蔵法師の遺骨を納めるに至ったことで知られる天台宗の古寺。平安時代に創建され、周囲に広大な寺領を所有する大寺だった。

北条氏配下の岩付領主となった太田資正が、最初に発給した書状は、天文18年(1549年)にこの慈恩寺に対して出したもの。
この時資正は、27歳。

その内容は、岩付太田氏以前の岩付領主だった渋江氏の残党を排除し、慈恩寺の寺領を安堵するというものであった。

渋江氏は、資正の父・資頼の時代から、北条氏の後ろ楯の下、太田氏と抗争していた宿敵。しかし、資正が北条氏公認の岩付主となったことで、渋江氏は北条氏の後ろ楯を失い、排除されていったのであろう。

資正の書状からは、己の領国を手中に収めていく最中の気負い、気迫が伝わってくる。

一方で、夕暮れ時に慈恩寺を訪ね、付近の広大な平野を歩けば、地平に沈む夕日の姿に、かつての領国から排除されていく渋江氏の悲哀も感じずにはいられない。


(慈恩寺 本堂)

(慈恩寺周辺の地形。元荒川を挟んで岩付城と対峙する地勢)


7.清河寺(埼玉県さいたま市)

清河寺は、埼玉県さいたま市西区にある臨済宗の寺。北条氏服属時代の太田資正が、天文23年(1554年)に発給した書状を2通残っている。
この時、資正は32歳。
北条氏に服属して、はや6年が経っていた。

太田資正が統治した「岩付領」は、今日のさいたま市岩槻区にとどまるものではなく、その領域は今日の埼玉県の東側の3分の1を占める広大なものであった。(北条氏以外に国持ち大名がいなかった戦国時代の関東では、資正の「岩付領」は領国としてむしろ大きい部類に入る)

清河寺は、この「岩付領」のほぼ西端に位置し、同時に大宮台地の西端でもあった。そこから西は、北条氏の「河越領」。いわば清河寺は“国境”に面した施設だった。

書状を発給した太田資正であるが、自らこの寺を訪れたとする記録は無い。
しかし、数年後、北条氏に反旗を翻して熾烈な抗争劇を演じることになる資正である。
“国境”の台地の端にあるこの寺を訪ね、いつかは戦うことになる北条氏の拠点・河越城を遠望する姿を想像してみたくなる。




(清河寺の位置)


8.養竹院(埼玉県川島町)

埼玉県川島町にある養竹院は、岩付太田氏の菩提寺として、代々の当主の位牌を守る寺。

岩付城からは遠く離れていることから、近年は、 岩付太田氏の本来の領国は本来養竹院の近くであり、後に岩付に本拠を移したとの説も有力になっている(黒田基樹)。

(養竹院の位置)

太田資正は、弘治元年(1555年)にこの一族の菩提寺に書状を発給している。資正33歳の時ののことである。

北条氏服属時代に資正が統治した「岩付領」が養竹院のある地域までをカバーしていた。

後に、北条氏と再び対決することで、岩付を追われた資正は、一族の菩提寺・養竹院には近寄ることすらできなくなる。

北条氏服属時代にこそ、一族の菩提を弔えたなのは皮肉と言える。

今日の養竹院は観光向けの寺院とはなっていない。
しかし、川越と近い湿地帯にこの寺院があることは、十分に体感できる。

北条氏の北進以前、太田氏が仕えた扇谷上杉氏の居城は河越城(川越城)であった。太田氏の菩提寺が川越近くにあることは、そうした扇谷上杉氏の栄光の残しと言えるかもしれない。




9.海老ヶ島城址(茨城県筑西市)

弘治2年(1556年)、34歳の太田資正は北条氏康の命を受け、常陸国の小田氏治攻めに参加する。
北条氏配下の結城氏が、小田氏治に攻められたこと受けての加勢戦であった。

この合戦には、資正のみならず、北条氏の宿老であり江戸領を治めていた遠山氏も動員されていた。さらに総大将は、猛将として名高い“黄八幡”北条綱成。関東の覇者、北条氏の威風を北関東に見せつける意図のある陣容だったと見ることもできる。

資正にとって、天文17年(1548年)の岩付城攻防戦以来、実に8年ぶりとなったこの合戦。結果は、総大将の北条綱成を待たずに敵方・海老ヶ島城を攻略した太田・遠山勢の勝利に終わる。

後に資正の配下は「岩付千騎」と称えられるが、その活躍の始まりはこの合戦だったのではないだろうか。
また、4年後の永禄3年(1560年)に、北条氏と再度の抗争を決意することになる資正は、この合戦で配下の錬度に自信を深めたのではないか。

まだ訪ねたことの無い海老ヶ島城址ではあるが、訪れた際には、この地の合戦と勝利で己の力を確かめ、自信を深めた資正の姿を思い浮かべてみたい。

→(未訪)


10.葛西城址(東京都葛飾区)

葛西は、関東内陸と江戸湾を繋ぐ河川物流の拠点(港)として古くから栄えた土地。葛西城はこの物流拠点を掌握するための城であり、戦国関東の争乱において度々争奪戦の対象とされた重要拠点であった。

資正にとっても縁は浅くない。

資正の父・資頼の代には、葛西城は、主家・扇谷上杉氏が江戸湾へのアクセスを担保する戦略拠点であった。


また、その城主・大石石見守は、資正の姉婿。
北条氏の攻勢によって葛西城が陥落すると太田氏を頼って岩付領に落ち延び、資正が岩付領主の時代には、岩付衆の筆頭として資正を支えることになった。

姉婿の居城であった葛西城。
資正の中には、一種特別な思いがあったのではないか。


弘治3年(1557年)、34歳の太田資正は、恐らくこの城を訪れている。

この年、資正の次男・政景が元服し、その元服式がこの葛西城で行われたためだ。

政景の元服が葛西城で行われたのは、彼が元服と同時に、この城の主であった関東公方・足利義氏の奉公衆となることが定められていた。

足利義氏は、北条氏康の甥である。
北条氏は、遂に三代目にして、関東最高の権威であった関東公方を自らの血族から出すにまでになったのであった。

その北条の血筋の関東公方に使える奉公衆として、資正は己の次男を捧げた。

北条氏康は、己の甥を関東公方に据え、かつて己に強固に背いた太田資正の子息をその家来としたことに、象徴的な意味合いを感じていたことだろう。

それを考えれば、息子・政景のみが葛西城を訪ねたとは考えにくい。父・資正も当然、この葛西城での元服式に参列したことであろう。

そして、かつて刃を交わした相手である北条氏康とも対面したはずである。北条氏への忠誠と服属を示すべく、深く身を屈めての対面であったが。


想像を続ける。

この時、資正は何を思ったか・・・と。

3年後に、北条氏に反旗を翻した資正は、葛西城の近くの石浜に派兵している。近くには、北条氏の鉄砲供給基地であった浅草が。

全くの空想であるが、葛西城を訪ねた資正は、水上交易で栄える浅草や石浜を目の当たりにしたのではないか。

北条氏への忠誠を示すための葛西城入りであったにも関わらず、資正は、この地を自ら訪ねたことで、新兵器・鉄炮を手にするには葛西から浅草に至るこの一帯を支配すればよいと察したのではないか。

そして、3年後の葛西城攻略の際に得た大量の鉄炮が、後に武田・北条五万の大軍を苦しませた永禄5年の武州松山城合戦に投入された・・・。

そう考えることもできるだろう。


北条氏への再度の反攻を、当時の資正が現実のものとして考えていたかは定かではない。

しかし、稀代の戦術家である資正は、北条氏と戦うならば、この地をこそが鍵になると直感したのだと思いたい。


今日の葛西城址には、かつての繁栄を伺わせるものは、何も残されていない。

戦国関東の大物達、北条氏康、足利義氏、そして太田資正とその息子、政景が一同に会した城がその場にあった。

それを思い浮かべるのは、困難かもしれない。



続く・・・つもり(笑)。

【追記】
続き、書きました。