その寺、臨済宗・清河寺(せいがんじ、埼玉県さいたま市西区)は、大宮台地の西の端にあります。

残念ながら今日の清河寺の境内からは、木々や建物が視界を遮ってしまうため、台地の端に立つが故の眺めは望めません。

しかしこれらが無かった時代には、この寺の西には、雄大な眺望が広がっていたことでしょう。

そして、その眺望は、国道16号線がこの寺の近くを通る時に遠望できるそれに近かったに違いありません。



国道16号で岩槻から川越に向かう時、道は、この寺の近くで大宮台地を下り降ります。

この時、西の方角の彼方には、秩父や多摩の峰々が連なります。関東平野の果てがそこにあることを示す山々が、地平に沿ってどこまでも続いています。

晴れていれば、その向こうには、富士の姿も。秩父と多摩の山々をはるか下に見下ろす大きさは、見る者を圧倒します。

地平に連なる山々と、その彼方の巨大な霊峰。
それはまさに、壮観という言葉にふさわしい眺めです。かつては、清河寺からもこの雄景が望めことでしょう。

清河寺から見えたであろう風景は、遠くの山々だけではありません。

更に国道16号を進めば、上郷橋を越える辺りで、多摩や秩父の峰々に続く平地が、緑の大水田地帯であることが見えてきます。

そして水田地帯の向こう、峰々の手前には、武蔵野台地の北端に乗る蔵の街、川越があることも。

清河寺からは、関東平野の果てやその彼方だけではなく、この巨大な平野の有り様そのものも望めたはずなのです。



この清河寺から見えたであろう風景を思い浮かべる時、私は、同じ風景を見たであろう歴史上のある人物を思い浮かべます。

そして同時に、この眺めとその人物との関わりをこの寺で語った時に、その話を聞いてくれたありし日の伴侶のことも。

前者は、清河寺とも所縁の深い戦国武将・太田資正。後者は、二年前にまだ闘病生活を送っていた時代の私の妻です。

さいたま市に居を構えて以降、郷土史を調べ、太田資正という半ば埋もれた地域の戦国名将の存在を知った私は、はまりこむようにこの人物のことを調べていました。

マニア性分の夫の“太田資正狂い”に、いつも妻は苦笑し、私が調べてわかったことを話そうとしても、ハイハイと言ってろくに聞こうとはしませんでした。

しかし、そんな妻が一度だけ、私の太田資正話に、深く耳を傾けてくれたことがありました。

ちょうど二年前、2015年2月16日。
闘病生活が新たな段階に入ったばかりの妻は、太田資正ゆかりの寺である清河寺を私とともに歩き、私の話に珍しくじっくり聞いてくれたのでした。


(清河寺の山門と妻の後ろ姿)



2015年2月16日、私は、この清河寺を妻と一緒にたずねました。

癌治療で有名な、川越市南古谷にある帯津三敬病院に行った帰りのことです。

病院帰りに寄った本来の目的地は、日帰り温泉「清河寺温泉」でした。清河寺は、そのまたついでに立ち寄った場所でした。

あの日、妻は上機嫌でした。

腹腔内に無数の転移癌(腹膜播種)を残したまま標準治療を行う大学病院をドロップアウトし、自分の信じる自然療法中心の生活に入って二ヶ月目。

抗がん剤治療を止めて少し経ったこのタイミングで、妻と私の気がかりは、腫瘍マーカーの値でした。

腫瘍マーカーの数値は、落ち着いているのか、はたまた羽上がっているのか。その結果は、妻の思いきった決断が正しかったのかを占う最初の試金石となるものでした。

緊張した面持ちで血液検査の結果を待つ妻と私に対して、帯津先生は笑顔を見せてくれました。

「素晴らしい値だ。大したもんだ」

見せてもらったマーカーの値は、信じられないものでした。あれほど高かった値が、正に激減していたのです。

妻は喜びました。
私も喜びました。

しかし、帯津先生はこうも言いました。

「今回の結果は、とてもよいものだったけどね、これはあなたが止めてしまった大学病院の抗がん剤がとても効いたからだと思うよ」。

腫瘍マーカー低下の理由を、抗がん剤治療を止めて以降の自然療法に求めたいと思っていた妻には、それは厳しい言葉です。

「今からでも、大学病院に戻ってみないかい?」と帯津先生。
「もちろん、今後も私もあなたを診て行くよ。漢方も出す。うちの道場で気功の体操をしていくのもいい。でも、抗がん剤を続けた上で。それがいいと私は思う」

帯津三敬病院は、癌患者に漢方を処方し、癌に効くと言われる気功や呼吸法を指導する“道場”を院内に持つ、ちょっと変わった病院でした。

いわゆる癌の標準治療(手術、抗がん剤、放射線)だけでは、患者は救われない。できることは何でもする。という帯津先生の方針で、種々の自然療法がそこでは行われていたのです。(もちろん、標準治療も排除せず行われています)

その自然療法の価値を十分認める帯津先生が、妻には抗がん剤に戻った方がいいと言う。傍らで聞く私にとって、それは重い一言でした。

妻は、「はい」とも「いいえ」とも言わず、黙って笑顔で帯津先生を見返していました。

“いいえ。私は抗がん剤治療には戻りません”という、妻なりの返答でした。

帯津先生も、妻の想いを察したようで、それ以上はもう何も言いませんでした。

診察室を出て、妻は言いました。

「帯津先生がああ言ったけど、私は違うと思っているよ」

自分の決断が未来を切り開いたのだと、妻は信じようとしていました。



「そのまま真っ直ぐ家に帰るのもなんだか勿体ない、何かご褒美的なことをしようよ」。

国道16号線で川越から岩槻に戻る途中、妻はそう言います。
上機嫌です。

帯津先生に言われたことは気にはなるものの、やはりこの日のビッグニュースは、腫瘍マーカーの劇的な改善です。

一喜一憂してはいけないと思いつつも、マーカー値が下がると、天にも昇る気持ちになります。

もちろん会社を休んで妻の通院に付き合っていた私も同じ気分。

国道16号線を走れば、50分で岩槻の家に着いてしまいますが、それでは勿体ない気がしました。

そこで、二人で相談し、帰り道の途中にある清河寺温泉に寄ることにしたのでした。




(清河寺温泉)

清河寺温泉は、よくある人工掘削の日帰り温泉です。しかし、露天風呂には風情ある竹林があり、人が少ない時間帯に来れば、山奥の秘湯に来たかのような気分が味わえます。

岩槻周辺にある数ヵ所の日帰り人工温泉の中で、妻が一番気に入っている場所でした。

実は、私にとっても気になる場所でした。

清河寺温泉のすぐ近くにある清河寺は、さいたま市の戦国武将・太田資正に関わりのある寺。岩槻城主だった時代の資正が、この清河寺の住持であった「蘆根斎」という僧侶に書状を出しているのです。

私は以前から、温泉に寄ったついでにこの清河寺にも寄ってみたいと、思っていたのでした。

妻の「えー、興味ない。私がいない時に行きなよ」に毎回阻まれて、なかなかその願いは叶いませんでしたが。



私たちは、男湯と女湯に別れ1時間半ほど湯に浸かり、レストランで集合。

癌を抑えるには身体を温めるのが鉄則です。妻は、熱い湯にしっかり浸かったようで、顔が赤くなっていました。

時間はお昼少し前。
私たちは、レストランで蕎麦を食べました。

しかし食べ終えても12時前です。
妻は、寄り道がこれで終わることが少し淋しそうに見えました。かと言って、これから別のどこかに行くアイデアも無い様子。

そこで私は、提案したのです。
「歩いて、清河寺まで行ってみようよ」

妻は「例の太田ナントカの寺?」と顔をしかめます。名将・太田資正も、妻にかかれば、太田ナントカです。

しかしこの時は、その後の展開がいつもと違いました。

「まぁ、いいよ。少し歩きたかったから」と、妻は言ってくれたのです。


(太田資正との縁を説明する清河寺温泉の案内版)



清河寺は、清河寺温泉から歩いて5分程のところにあります。

しかしこの時は道に迷ってしまい、20分も道に迷ってしまいました。

途中で妻から「もう諦めて帰ろう」と言われやしないかもヒヤヒヤしましたが、幸いそうはならず。妻もこの日は歩くことそのものを目的にしていたようで、不満を口にすることはありませんでした。

癌を抑えるには、身体を動かすこと。特に歩くことがいい。そんな闘病の鉄則も、20分の迷子散を後押ししてくれたのだと思います。



しかし、いざ念願の清河寺に着いた私は、目の前の光景にがっかりしてしまいました。

原因の1つは、清河寺の建築物がすべて近代に再建されたものだったこと。
清河寺には、太田資正時代のものは何一つ残されていませんでした。せめて由緒記や案内板に、太田資正のことでもが書かれていないものかと探しましたが、見つけられません。

もう1つの原因は、眺望です。
私が秘かに期待していた、大宮台地の西の端からの眺めは、木々や建物に邪魔され、全く望めなかったのです。


(清河寺の伽藍風景)


(清河寺 本堂)



ガッカリしている私の様子は、妻にも伝わったようでした。

「ん、なに? 思ってたのと違った?」

「うん。まあね」

私は、自分にとっての残念だった2つの点、特に、大宮台地の西の端からの眺めがみえなかったことを妻に話しました。

「俺は、かつて太田資正が見たはずの、その眺めが見たかったんだ」

「それって、有名な眺めなの?」

「いや、有名ってことは無いんだけどね」

清河寺からの眺望が、 歴史的に有名だったわけではありません。また、太田資正がその眺めを愛でたという逸話があるわけでもありません。

しかし、私の中には確信がありました。
清河寺の境内からの眺めが、太田資正の人生の一大決心を促したはずだ、という確信が。

永禄二年(1559年)のある日、太田資正は、清河寺から西を眺め、己の人生はこのままでよいのかと己に問うたはず。そして、その時の問いと思索が、翌永禄三年(1560年)のあの“大決断”へと繋がったに違いない。

太田資正のことを調べる中で、私はそんな確信めいた想いを抱くようになっていたのです。

「で、なんなの?」と妻。

この時の妻は、珍しく、本当に珍しく、私の資正トークに「聞くよ」という態度を見せていました。

機嫌の良さが、そうさせていのたかもしれません。

そんな妻の反応は滅多に無いもの。
私は驚きつつも、甘えることにしました。

私の中で育ちつつあった、永禄二年に清河寺で人生の岐路を前に思い悩んだ太田資正のイメージを、妻に語ったのでした。



「太田資正には敵がいた。小田原を本拠地とした北条氏という戦国大名がいてね、それが資正の生涯の敵だったんだ」

「小田原? 遠いね」と妻。

「うん。でも北条の領地は広くて、川越あたりまでは北条のものだった。しかも川越は、北に進出するための一題拠点だったからね。栄えていて、大きな城もあって、武装されていた。だから、岩槻の太田資正にとって直接の敵は、川越だったんだ」

「ふうん。でも、岩槻と川越なら、勝負にならないね。文句なく川越の勝ちだよ。岩槻は何も無いけど、川越は蔵がたくさん残ってて観光地だし」

妻の言うことは、実は当を得ています。

岩槻も、交通・交易の要所として戦国時代には重要な戦略拠点となった土地ですが、北条氏北進の中核地となった川越の方が役者が上。
武蔵野の台地の北端に位置し、入間川と赤間川が二重濠として西→北→東の三方を囲むように流れるこの地は、まさに南から関東を制するための天然の要害でした。
太田資正の時代にも、川越(当時は河越)という土地の重要性、威圧感は、相当のものだったはずです。

「うん。当時も川越の方が岩槻より上だったろうね」

私は、妻の指摘をすんなり受け入れることができました。そして言いました。

「だからこそ、太田資正は、この清河寺を重視したんだと思う。ここは、大宮台地の西の端で、ちょうど武蔵野台地の先端にある川越と向かい合う場所なんだよね。寺は合戦の時に本陣が置いたりできるから、一種の戦略拠点だった。資正は北条との戦いを見越して、この寺に目をかけていたんじゃないかと思う」

「へえ、そういう場所なんだ。」
妻は、ちょっと感心してくれたようでした。「それで、その眺めを見たかったの?」

「うん。太田資正は、書状を出すだけでなく、自ら何度かこの地に足を運んでいるような気がするんだ。そして、ここから西の川越を眺めたんじゃないかと思う」

「敵を警戒して?」

「うん。そうなんだけど、実は、ちょっと事情は複雑でね・・・」



ここまで私は、太田資正は常に小田原の北条氏と対立していたという前提で話を進めていましたが、実は資正と北条氏の関係はもう少し複雑です。

太田資正は、その生涯を小田原の北条氏との戦いに捧げたことで知られる戦国武将ですが、実は30代の十年間は北条氏に服属していました。

もともと太田資正は、天文15年(1546年)の河越合戦(いわゆる「川越夜戦」)で北条氏に大敗した旧支配勢力側の武将。
河越合戦の大敗後、北条氏の勢いを恐れて息を潜めていたこの旧支配勢力側(歴史用語で言えば室町幕府関東管領とその被官(配下))において、唯一、果敢に北条氏と戦い続けた武将でした。

例えば、河越合戦の大敗の半年後には、北条氏に奪われていた重要拠点・武州松山城を奪還しています。更に翌天文16年(1547年)には、兄の病死を契機に、北条氏に服属していた実家の岩槻を強襲。実力で家督を継承しています。

太田資正が、武州松山城から岩槻城に至る東西に広い地域を押さえたことで、北条氏は北関東への北進の道を封じられました。河越合戦の大勝で、武蔵国(現・埼玉県+東京都)全土を得たつもりになってきたところで、同国の北側を資正に奪い返されたことは、大きな失態だったはずです。

しかし、名将・北条氏康は、この突如誕生した太田資正の新領地を切り崩します。武州松山城で資正の留守を守る配下を工作で寝返らせ、返す刀で岩槻城を攻撃。

さしもの資正も、大軍で攻め寄せる北条勢の前に降服を選びます。そして、そこから彼の10年強に渡る北条氏への服属時代が始まったのです。



「じゃあ、太田ナントカは、北条とは仲間になったんだね」

私の話を聞き、妻が尋ねてきました。
太田資正の話をここまでしっかり聞いてくれた妻は、後にも先にもこの時だけです。

「そうだね。仲間というか、上下関係だけど。太田資正は、北条氏に服属することで岩槻の領主として生きることを許された」

「でも、川越を警戒していたの?」

「多分ね」

そこは、私の想像です。
しかし、根拠が無いわけでもありません。

「太田資正は、約10年後の永禄三年に、北条に対して反旗を翻しているんだ。越後から上杉謙信が北条を攻めにきた時に、真っ先に謙信側について、北条を叩いている。品川や浅草に攻め込んだり、小田原城攻撃では先陣を務めたり。服従し続けた10年間、いつも『このままでいいのか』と自問していなければ、こんな動きは取れないと、俺は思うんだ」

太田資正は、「他国衆」と呼ばれる一種の忠実な属国として、北条氏に仕えた10年を送ります。

しかし、その心の中には、いつか機が熟したなら、北条氏を打ち倒そうという思いがあったに違いないと私は、考えています。

河越合戦で滅びた主家の残党を、太田資正は匿い、養っていましたことか知られていますが、そうした行為そのものが、資正の雌伏の想いを証明していると思えるからです。

「じゃあ」と妻。「太田スケマサは、いつか戦う日が来ると思いながら、ここから川越を眺めたりしていたということ?」

「うん」

「でも、なんで? 太田スケマサは、なんで、そこまでして、北条と戦うことに拘ったの?」

いい質問です。
私は、内心嬉しくなりながら、答えました。

「理由はいろいろあったと思うけど、多分、矜持ってヤツが大きかったんだと思う」

「キョウジ?」

「簡単に言えばプライドだよ。太田資正の太田家は、代々、旧支配者側の有力家臣だった。それに、資正のヒイ爺さんの太田道灌の時には、名目上は家臣だったけど、実質的には道灌その人が関東の覇者だった。そんな栄光の一族の当主が、元はよそ者の北条の膝を屈することに、資正は我慢できなかったんだと思う。一生、この生き方のままなのかと考えた時、彼は受け入れられないものを感じていたのだと思う」

当時の私は、太田資正を理解するために、資正その人になりきったつもりで、彼の生涯の時々に我が身を置いて、その思考を考えようとしていました。

名族の当主として、このまま北条氏の軍門に下ったままでよいのか、と自問する北条服属時代の資正のイメージは、その頃から思い抱いていました。

しかし、そのイメージを浴びせかけるように妻に語ってしまったことに気づき、反省し始めてもいました。

「ごめん。ちょっと、語りすぎたよね?」

「いいよ。面白かったから」

妻からの予想外の返事。
妻は続けて言いました。
「人って、生き方は変えられないんだよね」

妻のその言葉の意味は、私にはすぐにはわかりませんでした。
妻が珍しくも、マニアックな太田資正トークを聞いてくれ、理解してくれた“奇跡”に、私は嬉しくなっていました。



妻には細かい話はしませんでしたが、清河寺の境内から太田資正が川越を眺め、いつか来る戦いの時を思ったのは、永禄二年(1559年)だったろうと私は考えています。

この年、北条氏康は、家臣や譜代の国衆、さらには属国にあたる「他国衆」に、所領に関する情報を提出させ、後世に『北条氏家臣所領役帳』と呼ばれる文書を取りまとめています。

北条氏が配下の各勢力がどの程度の経済力を持ち、どの程度の軍役を課すことができるかを測定するための調査です。

そしてそれは、それまで属国と言えど独立国扱いだった太田資正ら「他国衆」を、徐々に家臣としてガラス張りの序列に組み込んでいくための第一歩でもあったはず。

この永禄二年の『役帳』において、太田資正は、本国である岩槻の所領のことは報告していません。
彼が報告したのは、北条氏から与えられと考えられる“追加的”な所領である、古尾谷荘のみ。

「他国衆」の経済力をガラス張りにしようとした北条氏康の『役帳』づくりの試みに、資正は拒否を示したのです。

「先祖から継いだ岩槻の報告はしない。報告するのは北条から貰った古尾谷荘だけだ」と態度で示しながら。

(ちなみに、この古尾谷荘は、現在の川越市南古谷。何の縁か、妻が治療に通う帯津三敬病院の所在地なのです。)

私の空想の中で、永禄二年に太田資正が清河寺から川越を眺めるのは、そのためです。

北条氏の『役帳』づくりに、古尾谷荘の分だけ報告することにした資正は、家臣に同地の検地をさせます。資正自身、その様子を見にこの地に現れ、その帰りに、清河寺の立つ台地の上から、川越を眺めるのです。

己を丸裸にしようと牙を向き始めた北条氏の、北進の拠点であった川越。

清河寺の立つ大宮台地から、古尾谷荘の広い湿地帯を経て、その彼方に見える武蔵野の台地。その北端にあるのが川越です。

その地を遠望しながら、資正は何を思ったか。

今回は、北条氏に賜った古尾谷荘だけを報告したが、次はこんな手は許されないことでしょう。

岩槻の土地に根差す己の力は、北条氏によって丸裸にされ、もはや属国ですらなく、ただの家臣として取り込まれていく未来。

その未来を思い、屈辱を感じたであろう資正は、「ならば戦えるのか?」と自問して 、彼方の川越の城を遠望したはずです。

南の小田原に本拠を構え、遠く北のこの川越においても、あのような巨大な城で諸領主らを威圧する大勢力に、己は戦って勝てるのか。

そう考え、己が下さねばならない決断の重さを実感したに違いないのです。



「そろそろ、帰ろうか」
と、私から言いました。

歩くのは癌患者には必要なことですが、2月の寒空の下、いつまでも外に居れば身体を冷やしてしまいます。それは、癌を抑える上で、決してしてはいけないこと。

それに、この清河寺の境内から西の川越を眺めたであろう戦国時代の太田資正の想いを、思いもかけず、妻と追体験できたことに、私はもう満足していたのです。

期待した眺めが、見えるわけでもありませんでしたし。

「うん。そうだね」

清河寺温泉の駐車場を目指して歩き出す、妻と私。

歩きながら、ふと、妻が尋ねてきました。

「それで、太田資正は、どうなったの?」

「どうなったの、って?」

「だって、 川越の北条 と戦ったんでしょ? 戦って、どうなったの?」

私は、肝心なことを妻に話していないことに気づきました。

国力にして数倍の差のある大大名・北条氏に戦いを挑んだ岩槻の一地域領主・太田資正。

上杉謙信という合戦の天才の助けを得た上での戦いでしたが、やはりそれは無謀な挑戦でした。

遠い越後からは、さしもの謙信もそうそう頻繁には関東まで出張って来られません。その上、北条氏の同盟相手であった武田信玄が、信州から越後を狙い、謙信は常に二正面作戦を強いられてもいました。

謙信不在の関東で、資正はほぼ単身で、大大名の北条氏と戦わざるを得なかったのです。

そんな中、資正は善戦します。

最新兵器・鉄炮を使い、軍用犬を使った支城との情報連携を行う等、智恵の限りを尽くして戦った資正は、一時は、北条・武田を大いに苦しめたのです。

しかし、国力の差は徐々に隠しきれなくなります。
落としてはならない城を落とされ(永禄五年の葛西城の陥落、永禄六年の武州松山城の陥落)、起死回生の大勝負で大敗(永禄七年の第二次国府台合戦)し、資正は万事窮す、となります。

最後は、北条側についた息子に裏切られて追放され、岩槻を追われ、惨めな浪人生活を送ることになるのです。

もちろんその後、常陸国で佐竹氏の客将・片野の三楽斎として再起するのですが、少なくとも岩槻の領主・太田資正が惨めな敗北を喫したのは、否定できないことです。



私は、岩槻領主・太田資正の奮戦と惨敗を簡単に妻に話しました。

「そっか、負けたのか」と妻。

「うん。どだい、国力が違いすぎた。智恵を使って、局地戦ではかなり北条を苦しめたんだけど、最後は地力の差にやられた」

ふうん、と聞く妻は、少し残念そうでした。

「資正は知将だったし、局地戦ではその知恵が生きたけど、本当の知将だったら、どんなに屈辱でもこんな無謀な戦いは挑まなかったかもしれないね」

私は、資正のことを少し“落として”語りました。己の資正愛の強さを自覚していたので、少しはアイロニカルな視点も持たねば、バランスが取れないと思っていました。

「だから、俺は資正が好きだけど、ダメな部分も大きかった男たとは思っているよ。あの時、資正が、もう少し冷静に、大局的に時勢を読んでいたら・・・」

「そんなの無理でしょ」妻は笑って言います。
「そんなの太田スケマサじゃないでそょ。それに、そんなスケマサなら、あなたは好きになっていない」

「まあね」

図星を突かれました。
そうなのです。
己の矜持に従い、己の知恵と運を信じて、無謀とも言える戦いに挑んだからこそ、太田資正は、魅力的な男なのです。

たとえ、その先に待っていたのが、惨めな敗北であったとしても。

「私は、太田スケマサは、後悔はしなかったと思うよ」

妻は、歩きながらそう言います。

「たとえ負けても、それでもいいと思って、スケマサは戦ったんでしょ。戦わなかったら、スケマサじゃないよ。戦わなかったら、逆に一生後悔したんじゃない? 」

妻の言葉に、ちょっと驚く私。
そして、この時になってようやく、妻が、己の矜持に従って無謀な戦いを挑んだ太田資正に、少し自分を重ねていることに気づきました。

ステージの進んだ癌を患い、抗がん剤治療を続ければ、五年後まで生きていられる可能性はそれなりあった妻。
しかし、妻は、長い下り坂を下り続けるような生き方は性に合わないと、治療を拒否したのが、この時の妻だったのです。

私は、妻が抗がん剤治療をドロップアウトした時に言った言葉を思い出していました。

危ない道だとわかっている。
抗がん剤を続けた場合より早く死んでしまうことだって、あるかもしれない。
でも、私は賭けたい。
自分の治癒力でこの癌を消す道に。
それで治せた人がものすごく少ないこともわかっている。
他人からバカだって思われているのはわかっている。
でも、私は、完全に治せる可能性のある道を選びたい。
たとえダメでも、私は絶対に後悔しないから。
だから、お願い・・・

生き方を貫いて無謀な戦いを挑んだ太田資正に、妻が自分を重ねている。その生き方に、少しばかりながら共感している。

察した私は、激しく後悔していました。

生き方を貫いて戦い、しかし敗れた資正の物語は、なんと不吉で、今の妻をdiscourageするものだろう。

自分は、なんて話をしてしまったんだ。

私は、慌てて妻に、太田資正が敗れた後に再起したこと、故国岩槻に戻ることはできなかったものの新天地で稀代の策士として活躍したことを話しました。

資正は、賭けに敗れた。
しかし、そこで資正の生涯が終わったわけではないのだ、と伝えたくて。

「なにそれ?励まそうとしてるの?」

妻は笑っていました。

「いや、だって、不吉な意味に取ってほしくないから・・・」

恐る恐るそう言う私に、妻は、

「全然気にしてないよ。考えすぎだよ」



もう、清河寺温泉の駐車場まで戻っていました。

「近いね、行きに20分かかったのはなんだったの?」と妻に言われながら、私たちはクルマに乗り込みます。

クルマで国道16号線を一路岩槻に向かう車中、妻は、
「私、治すからね」
と言いました。

「うん」と、私。

「治す。というか治る」

妻は続けます。
「自分の治癒力で治せる人は、何千人に一人だと思う。でも、根拠はないけど、私はその一人になれる気がする」

「そうだな。親の反対を押しきって、プロの漫画家になっちゃった人だからな。なれそうだね」

妻は、私のその言葉には直接反応しません。

プロの漫画家としてメジャー誌マーガレットでデビューできたことは、私のような素人には栄光の経歴に思えますが、本人にとっては「連載作家になれなかった」という失敗の経歴の一部でもありました。

それでも、誇りに思ってほしいと思い、私は妻に、デビューは栄光の経歴だと言い続けるようにしていたのです。

「とにかく、私は大丈夫」

妻は強気に言います。
しかし、その後の言葉は、少し違いました。

「それに、もしも、もしも、本当にもしも、上手くいかなかったとしても、それが私の生き方だよ。私は、絶対に後悔しないからね」

なんと答えてよいかわからない私。

そんな私に、妻は、
「こんなわがままな治療を選ばせてくれて、ありがとう」
と言ったのでした。

私は、妻らしいな、と思ったのを覚えています。

そして、全くとんでもない決断をする女性を伴侶に選んでしまったものだ、とも。

しかし、その一方で、妻の「そんなスケマサなら、あなたは好きになっていない」という言葉も思い出していました。

こんな状況でも、自分らしい生き方を選ぶ妻。だからこそ、私は好きになったのかもしれないと思いました。



私は、妻の無謀な治療を無条件に許していたわけではありません。

抗がん剤治療をドロップアウトする代わりに、帯津三敬病院で腫瘍マーカーの測定をし続けることは、妻に約束させていました。

もしも、マーカーの値が上昇したならば、問答無用で抗がん剤治療に妻を戻すつもりでした。

実際その日は2015年5月に訪れ、私は妻との最後の夫婦喧嘩をすることになりますが、それはまた別の話です。

いま思い出すのは、清河寺を歩き、妻の決意を改めて聞いたあの日と、それからしばらく続いた平穏な日々のことです。

自分で生き方を選び、自分を信じて日々を生きる妻は、とても充実して見えました。

そんな妻との生活は、私にとっても、息子にとっても楽しいものでした。

妻と過ごした10年間の中で、 一番穏やかで、幸せな日々だったかもしれません。