出張の特急列車の中で、青木文彦(2001年)「岩槻城大構の成立と城下町」を読んでいます。

黒田基樹編『論集 戦国大名と国衆19 北条氏房』に収録された論文です。



短い論考でしたが、なかなか興味深い内容でした。

特に、
・岩槻城の城下町である久保宿町と富士宿町のメインストリートが交差するのが、岩槻城内の三ノ丸大手西櫓である、
・三ノ丸大手西櫓が、岩槻城内の構造物として最も城下町に近く、また地形的にも最高地に位置していたことから、モニュメンタルな存在であったと考えられ、
・それゆえ、城下町設計において、このモニュメンタルな構造物に合わせたメインストリート整備が行われたことは十分考えられる、
という指摘には、なるほど、と唸りました。

岩槻城の三ノ丸大手西櫓があったのは、県道2号線の渋江交差点から消防署付近の北面地。

以前、「ブラタモリ的岩槻城の地形を味わうドライブ」で、「城下町と三ノ丸の間を沼濠が扼す地形」として紹介したあたりです。

今は宅地開発され、住宅が立ち並ぶ場所ですが、確かにあそこに櫓があれば、城下町側からは岩槻城を象徴する建造物として見えたことでしょう。
 


久保宿町も、富士宿町も、そのメインストリートが長くまっすぐ伸びる道。都市設計の跡を感じさせるものです。

この二本の直行する長いメインストリートが、岩槻城の櫓を基点に設計されたのだとすると、なかなかロマンがありますね。

青木氏の考察では、この構造は、少なくとも大構が築かれた北条氏房(太田氏房)時代には遡れることになります。
あるいは、太田資正時代にも遡れるのかもしれません。

あのあたり、もう一度歩いてみようかな。

また、富士宿町のメインストリートが、国道16号を越えて南に延びていたという説明も、ちょっと驚き。

岩槻城大構は、国道16号には届いていないかと思っていたのですが、それは勘違いだったようです。

知楽院あたりの凸凹地形も、大構に取り込まれて、岩槻城防衛に活用されていたとするのが青木氏の解説。

知楽院は、南に張り出した舌状台地の上にある寺院。開基は、太田資正の父、太田資頼です。

太田資頼が、岩槻城防衛も考えて、同寺をあの場所に築いたのだと考えれば、いろいろ腑に落ちますね。
【参考】知楽院から岩槻城新曲輪の森を望む

太田資頼関連の岩槻の寺院には、洞雲寺がありますが、こちらも岩槻城に至る街道(奥大道、後の日光御成街道)を高地から扼す位置に置かれていて、戦略的な意味合いを感じさせる立地です。
【参考】岩槻・洞雲寺を歩く

そう考えると、大構を作って明確に岩槻城の防衛施設を築いたのは北条氏房(太田氏房)ですが、その大元は、太田資頼に遡りそうや気もしますね。

戦略拠点・岩槻の原型を作ったのは、太田資正の父、資頼なのかもしれませんね。


【追記】
久保宿町のメインストリートと富士宿町のメインストリートを伸ばした先の交点に、岩槻城の三の丸大手西櫓がある・・・という関係。

江戸時代の岩槻城絵図では確認できないですね。
実際の地形はわかりませんが、少なくとも江戸時代の岩槻藩関係者には、その意識は無かったように思えます。
ちょっと残念。

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