『岩槻市史 古代・中世史料編Ⅰ 古文書史料(下)』(1983年)の“年次未詳”より、太田資正関連の書状を抽出。
672
二月一日
里見義尭は、上杉輝虎に、岩付参陣の要請に応ずる旨を連絡する。
(永禄五年推定)
《メモ》
永禄六年の誤りではないか?
松山城救援のために、謙信が里見・佐竹・宇都宮・簗田らに参陣を求め、返事を得た時期と考えれば符号する。
永禄五年二月と言えば、岩付領が北条氏から“一体的な攻撃”を受け、氷川女體神社がそれを識言として記録していた頃。当時、謙信の岩付城への進軍の記録はない。
680
二月一日
武田信玄は、梶原政景に書状を出し、春に岩付城を攻略することを告げ、城内の計策を命ずる。
(元亀元年推定)
《メモ》
武田信玄は、謙信が北条氏と“越相一和”を結んだことで関東の味方衆(佐竹・宇都宮・三楽斎ら)と不和になったタイミングを狙い、盛んに三楽斎らを味方にしようと画策したことが知られる。
岩付城を餌に、太田三楽斎・梶原政景親子を味方に引き込むことを狙った書状か。
しかし、いくら信玄と言えど、信濃・西上野から岩付領まで攻め込むのは、距離的に不可能。三楽斎らは果たして本気と受け止めたか?
683
二月六日
北条氏政は、上杉輝虎に和議の条件として岩付城等を太田資正に渡す約をしたこと等を、遠山康光から由良成繁に伝える。
(元亀元年推定)
691
二月九日
太田道誉は、羽柴秀吉を通して、織田信長に親交を求め、秀吉が返書を出す。
(天正九年説、十年説あり)
《メモ》
太田資正(道誉は資正の道号)は、織田信長家臣団の中で、豊臣秀吉を窓口(取次役)として外交を行っていた。
この秀吉との関係が後に資正の上方外交の基盤となっていく。
694
二月十一日
太田資正は、上杉輝虎配下の山吉豊守に書状を送り、輝虎の本庄城攻撃の様子を伺い、関宿城救援のため、関東出馬を要請する。また、北条氏康との戦闘の様子も伝える。
(永禄十二年推定)
699
二月十六日
梶原政景は、上杉謙信に年頭の祝賀によせて関東出陣を要請する。
(天正五年推定)
《メモ》
謙信急死直前の書状。
太田資正・梶原政景親子と和解した謙信は、この書状を受けて、久々の“越山”に意欲を燃やしたというが・・・
700
二月十七日
上杉謙信は、太田資正の書状に接し、梶原政景に返書を出し、太田方との今後の親交を期待する。
(天正三年推定)
《メモ》
資正の妹「としやう」の仲介で、謙信と資正の関係が改善した頃の書状か?
701
二月十七日
太田資正は、月洲長瓊禅定尼のために日拝料として十三貫文を寄進し祈念する。
(天正十九年推定)
《メモ》
この尼は、資正の後妻とのこと。
702
二月十八日
下総国臼井城主酒井胤治は、沼田城主河田長親に北条氏政の臼井城攻撃等を報じ、太田資正を岩付城に送り届けた旨を連絡する。
(永禄八年推定)
《メモ》
『岩槻市史』は永禄八年と推定するが、内容から考えれば、永禄七年が妥当ではないか。
永禄七年正月の国府台合戦の後、資正は岩付城に戻れず、一旦は里見氏とともに上総国に逃れ、その後酒井氏に助けられながら岩付に帰還している。
718
二月二十九日
上杉輝虎は、太田資正に、北条氏康との和議を結ばぬこと、もし必要があれば必ず資正等に相談する旨を報ずる。
(永禄十二年推定)
《メモ》
越相一和(謙信ー北条氏同盟)の検討に際して、謙信が反対する資正(当時既に「三楽斎」を名乗る)に送った書状。
この頃から、北条氏と対立する関東の謙信味方衆は、謙信を頼らない反北条同盟を模索するようになる。
その核となったのが、関東の反北条勢と謙信の外交の要となった資正だった。
672
二月一日
里見義尭は、上杉輝虎に、岩付参陣の要請に応ずる旨を連絡する。
(永禄五年推定)
《メモ》
永禄六年の誤りではないか?
松山城救援のために、謙信が里見・佐竹・宇都宮・簗田らに参陣を求め、返事を得た時期と考えれば符号する。
永禄五年二月と言えば、岩付領が北条氏から“一体的な攻撃”を受け、氷川女體神社がそれを識言として記録していた頃。当時、謙信の岩付城への進軍の記録はない。
680
二月一日
武田信玄は、梶原政景に書状を出し、春に岩付城を攻略することを告げ、城内の計策を命ずる。
(元亀元年推定)
《メモ》
武田信玄は、謙信が北条氏と“越相一和”を結んだことで関東の味方衆(佐竹・宇都宮・三楽斎ら)と不和になったタイミングを狙い、盛んに三楽斎らを味方にしようと画策したことが知られる。
岩付城を餌に、太田三楽斎・梶原政景親子を味方に引き込むことを狙った書状か。
しかし、いくら信玄と言えど、信濃・西上野から岩付領まで攻め込むのは、距離的に不可能。三楽斎らは果たして本気と受け止めたか?
683
二月六日
北条氏政は、上杉輝虎に和議の条件として岩付城等を太田資正に渡す約をしたこと等を、遠山康光から由良成繁に伝える。
(元亀元年推定)
691
二月九日
太田道誉は、羽柴秀吉を通して、織田信長に親交を求め、秀吉が返書を出す。
(天正九年説、十年説あり)
《メモ》
太田資正(道誉は資正の道号)は、織田信長家臣団の中で、豊臣秀吉を窓口(取次役)として外交を行っていた。
この秀吉との関係が後に資正の上方外交の基盤となっていく。
694
二月十一日
太田資正は、上杉輝虎配下の山吉豊守に書状を送り、輝虎の本庄城攻撃の様子を伺い、関宿城救援のため、関東出馬を要請する。また、北条氏康との戦闘の様子も伝える。
(永禄十二年推定)
699
二月十六日
梶原政景は、上杉謙信に年頭の祝賀によせて関東出陣を要請する。
(天正五年推定)
《メモ》
謙信急死直前の書状。
太田資正・梶原政景親子と和解した謙信は、この書状を受けて、久々の“越山”に意欲を燃やしたというが・・・
700
二月十七日
上杉謙信は、太田資正の書状に接し、梶原政景に返書を出し、太田方との今後の親交を期待する。
(天正三年推定)
《メモ》
資正の妹「としやう」の仲介で、謙信と資正の関係が改善した頃の書状か?
701
二月十七日
太田資正は、月洲長瓊禅定尼のために日拝料として十三貫文を寄進し祈念する。
(天正十九年推定)
《メモ》
この尼は、資正の後妻とのこと。
702
二月十八日
下総国臼井城主酒井胤治は、沼田城主河田長親に北条氏政の臼井城攻撃等を報じ、太田資正を岩付城に送り届けた旨を連絡する。
(永禄八年推定)
《メモ》
『岩槻市史』は永禄八年と推定するが、内容から考えれば、永禄七年が妥当ではないか。
永禄七年正月の国府台合戦の後、資正は岩付城に戻れず、一旦は里見氏とともに上総国に逃れ、その後酒井氏に助けられながら岩付に帰還している。
718
二月二十九日
上杉輝虎は、太田資正に、北条氏康との和議を結ばぬこと、もし必要があれば必ず資正等に相談する旨を報ずる。
(永禄十二年推定)
《メモ》
越相一和(謙信ー北条氏同盟)の検討に際して、謙信が反対する資正(当時既に「三楽斎」を名乗る)に送った書状。
この頃から、北条氏と対立する関東の謙信味方衆は、謙信を頼らない反北条同盟を模索するようになる。
その核となったのが、関東の反北条勢と謙信の外交の要となった資正だった。