昨夜、久しぶりの家風呂でリラックスしていた時、不意に太田資正の“最期”のイメージが浮かびました。忘れない内に書き留めておこうと思います。

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かつての領国「岩付(岩槻)」、そして居城である「岩付城(岩槻城)」には、遂に戻ることなく生涯を終えた太田資正。

一説には、秀吉の“北条征伐”の後、資正は岩付に戻れると期待したものの、結局は叶わなず、そのことに大いに落胆したとか。
(関東全土が、一部の佐竹領を除き家康に与えられ、徳川勢が大規模な国替えをしたことはよく知られている通り。岩付(岩槻)には、家康の家臣の高力氏が入ることなりました。)

しかし、太田資正は、北条氏を相手に、生涯を掛けて戦い続けた老将。文字通り不撓不屈を生き方を貫いた男です。その最後を秀吉から岩付を“与えられなかったこと”に落胆の日々とするのは、悲しく寂しいものがあります。
直前には、小田原で秀吉の城攻めを「御計略無くして」と堂々と批判した資正だけに、その感はひとしおです。

それゆえ、太田資正に関心を持ってからのこの一年弱程の間、私の中には常に、一つの疑問がありました。
「資正は、本当に落胆・失意の想いの中で逝ったのか」。

もちろん、この疑問に正解などあるはずもありません。
資正が最期に何を想って逝ったのかは、資正自身にしかわからないこと。結局は、私の中で、納得の行く捉え方をしたがための疑問に過ぎません。

しかし、自己満足の答えでよいとしても、なかなか納得の行く答えにたどり着けませんでした。昨夜、風呂の中で浮かんだのが、それに対する“私の答え”。
ささやかながら、エウレーカの気分になりした。

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(1)
妄想の材料は、以前このblogで紹介した太田牛一著の秀吉伝記「太閤さま軍記のうち」です。
太田牛一は、信長の伝記「信長公記」信長の著者として有名な人物。彼は後年、豊臣秀頼に仕え、太閤秀吉の全盛期のことをやはり書物にまとめています。
この伝記の中で太田牛一は、秀吉が小田原城を落とし、下野国宇都宮で「宇都宮仕置」と呼ばれる戦後処理を行った後、その帰路に岩付(岩槻)まで立ち寄ったこと。岩付で萩を鑑賞したことを記しているのです。
暦の上では、天正十八年九月のことです。

岩付の萩を、太田牛一は「武蔵の岩付にて、名にしおふ萩を御一らんありて」と述べています。しかし、岩付の萩が「名にしおふ」程の存在であったことは、(私の知る限り)他の史料には見えません。

私は、秀吉や他の上方の諸将の前で、岩付の萩のことを語ったのは、小田原迅をを訪ねた資正だったのではないかと、考えます。

小田原陣では、資正は秀吉の拙攻を批判し、この天下人を怒らせたこともありました。しかし、別の機会には北条方の松田氏の離反を見破る等して、(それが秀吉による計略の成果だったこともあり)秀吉の激賞を受けています。

このような秀吉と資正の関係の中であれば、秀吉が、上方諸将の戦意を高めるために、これから手に入れる関東の地の素晴らしさを資正に語らせた、そんな場面があったとしてもそれほどおかしくはないでしょう。

資正は、関東各地の土地の美しさやその恵みを語り、故国岩付については、おそらくは岩付城の近隣にあった萩咲き乱れる地のことを話したのではないでしょうか。

萩は、秋の花。
四月から七月にかけて小田原城を包囲していた秀吉勢にとって、秋に咲く萩を北条氏のから奪った岩付で鑑賞すべし、という話は、魅力的に響いたはずです。

結果的に、秀吉は九月に岩付を訪ねて、萩の花を愛でます。「名残をば  つきる枝にやのこすらん  花の盛りを捨つるみやこぢ」という歌も詠んだ、と太田牛一は書き残しています。

この時、既に北条氏は滅び、関東は家康に与えられることが宣言されています。
資正は、「宇都宮仕置」の結果、自身の岩付に帰還叶わぬことが分かり、常陸国片野の地で、落胆していた頃です。

昨夜、私の中に浮かんだのは、片野の地で、秀吉が岩付を訪ねたことが資正の耳に届いた場面でした。

もうあの地には帰れぬ、と失意の中にあった七十歳の老資正が、「関白殿下は岩付に立ち寄り、萩の花を愛でて歌を詠んだらしいぞ」と聞く。資正は意外にも、哥哥と笑った。そんなイメージが浮かんだのです。


(2)
失意と落胆の日々を忘れるかのように、愉快に笑う老資正。
資正は思うのです。「関白殿下よ、そこまで悔しい思いをして遊ばされたか」と。

関東広し。
その中で秀吉が、こと岩付を選んで訪ね、歌まで詠んだのは、この資正に対して思うところがあったためであろう。
小田原城攻めにおいてこの資正の進言を一度は退けながら、最後には「果して三楽が申せし様にぞなりにける」(奥羽永慶軍記)となった顛末を、秀吉が内心恥じ、悔しく思っていたに違いない。
城攻めには自信があり、己の知恵者であることを誇っていた秀吉は、己が最後に取った策をこの資正に先回りされたことが悔しかった。それ故に、資正が決して見ることのない岩付の萩を楽しみ、歌に詠んで、広く言いふらしたのだ。

自分に都合よくそう解釈し、ひとり溜飲を下げる老資正。

そんな“幸せ”な老人の姿を、私は、思い浮かべます。

「儂は、天下人との知恵比べに勝ったのだ」
そう、老資正が思うことができたなら、其れ以降の彼は、一人の老人として、己の生涯を誇らしく回想したことでしょう。


(3)
老資正は、春の暖かい日差しの中で、まどろみながら思います。

天下は上方武士のものとなったが、その勝者たる関白秀吉も、儂の知恵には叶わなかった。
ならば、この資正が、生涯をかけて戦い抜いた関東の大乱、即ち御屋形様(上杉謙信)、北条氏康、武田信玄らが大軍を率いて戦い合いは、やはり天下の大乱であったのだ。
そもそも、武の本場は関東ぞ。
天下一のもののふ達が集い、凌ぎを削ったのがあの大乱であった。
その中で、儂もよく戦ったものだ・・・。

北条氏康めは、憎い敵であったが、手強い男であった。いや、悔しいがあやつは一個の英傑であった。上方の名のある大名どもも霞むくらいに。
武田信玄も恐ろしき敵であった。
御屋形様(上杉謙信)は、まこと神々しく戦に強いお方だった。しかし短気で、怒り出せば取り付くしまもなかった。あと本の少し長考のできるお方であれば、関東は我らのものとなっていたであろうに。悔しいことだ。

資正は、翻ってありし日の岩付衆を思い出す。

我が家臣らも、よく戦った。
下野守は、武田の強兵を松山城で受け止め、よく耐えた。また岩付を追われた後の儂に、よく仕えてくれた。儂が、岩付に戻れていれば、最後にあのような形で袂を分かつこともなかったであろうに。

息子、氏資よ。
儂が、もう少し強ければ、そなたと敵味方に別れることもなかったであろうに 。そして氏政に騙され、たった五十騎馬で負け戦の殿を務めることも、そこで討死して果てることもなかったであろうに。
儂は、お前とともにもっと戦いたかった。なぜ儂より先に逝ったのだ・・・。

資正の三男・資武が後に「太田資武状」として知られることになる書状の中で、語る父・資正の生前の活躍は、この頃に聞かされたもの。そう考えてみるのも、面白いかもしれません。


(4)
老人の回想には、過去を振り返って未来を創るという出口はありません。回想そのものが愉しき行為であり、それ自体が目的となりす。そうした回想が続けば、やがて幻が入り込むようになります。

老いゆく日々の中で、資正の回想は、こうであればよかったものを、という想いと入り交じり、次第に幻が増えていきます。
最期の時が近づく頃には、資正は、その幻の中で、なぜか生きている謙信や下野守らとともに、北条・武田連合の大軍を向こうにした大戦(おおいくさ)を戦っていた。
私の中では、そんなイメージが広がっています。

舞台は、武州松山城。
上杉謙信の最初の越山(関東攻め)の中で、資正が北条から奪った城です。
この要所の城を、北条氏康は総力を決して奪還しようと試みます。武田信玄にも援軍に来てもらい、膨らんだ北条・武田連合の軍勢は、総勢五万。

史実の資正は、これを迎え撃つため、家臣・太田下野守に松山城を守らせ、越後の上杉謙信に援軍を頼みます。しかしこの冬の深い雪に阻まれ、謙信勢は松山城の落城に間に合いませんでした。
この時、謙信が間に合っていれば、戦国関東の歴史は、変わっていたかもしれません。

資正にとっても、生涯忘れ得ぬ悔しき一戦だったはずです。

その悔しさが故に、資正が思い浮かべる幻の回想中では、謙信は間に合います。
かねてからの予定どおり大軍を率いて岩付城に入った謙信は、資正と戦評定を行おうとしています。

謙信のもとに向かう資正。その傍らには、資正と決別し、後に北条方の武将として討死することになる息子、氏資が現れます。
「父上、やはり私は父上とともに参ります。岩付太田の嫡男として、北条と戦う覚悟ができました。早く松山城の下野守を助けに行きましょう」。
「そう来ると思っていたぞ」と資正。
親北条であった氏資が、遂にともに北条と戦う決断をしたことが、資正は嬉しくてならない。やはり、氏資は分かってくれた、と。

「政景や資武はどうした?」と資正。
今度は、氏資が笑います。
「父上、何を寝ぼけたことを、弟たちはまだ『こちら』には来ていないではないですか」

こちら・・・?
・・・そう、そうだったな・・・。
全く、儂としたことが・・・。

資正が朦朧としつつ納得すると、今度は、謙信の怒声が聞こてくる。

「何をしておる、美濃守。早く策を述べよ。奴らが攻めるは、貴様の領国の城ぞ。攻めるも守るも、まずは貴様の策を聞いてからだ」
資正と氏資は、慌てて謙信のもとへ駆け寄る。

しかし、資正は、嬉しかった。
この武の本場の地、関東で、名高い名将である北条氏康と武田信玄を向こうに回した大戦を始めるのだ。相手にとって不足はない。
こちらには、天下無双の軍神・上杉謙信がいる。頼れる家臣・下野守が固く固く松山城を守っている。意見を違えていた息子、氏資も和解し、力を貸してくれる。

これ以上の武士冥利があろうか。
あとは、この太田美濃守資正が、勝つための策を献ずるのみ。

資正は、己の秘策を謙信に献じる。謙信は頷き、やおら立ち上がり、全軍に出陣を命じます。
決戦直前の馬達の幻のいななきの中で、資正もまた、武者震いにします。
いよいよだ。

そして薄れゆく意識の中、資正は、逝くのです。満足した表情を浮かべながら。

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資正の三男・資武が残した「太田資武状」には、陸奥相馬で反乱があり、佐竹氏家臣としてその鎮圧を行っていた 最中に、父・資正が亡くなったことが記されています。

親ニ候者死去、小田原陣之翌年天正十九年辛卯九月八日ニ候、其時分拙者儀者、奥州ニ一揆起、相馬表ニ在陣仕砌ニ而、臨終ニ逢不申候事

資武が伝える資正の命日は、天正十九年九月八日。
秀吉の岩付での萩鑑賞のちょうど一年後のことです。