岩槻城(岩付城)・太田道真築城説の鍵を握る、戦国時代の曹洞宗の名僧・月江正文

「岩槻城は誰が築いたか」(小宮勝男)を読み、区内の洞雲寺という寺が、月江正文の弟子にあたる布州東播の創建であると知りました。
明日の研修の事前課題も、なかなかやる気にならない(笑)ので、ちょっと見に行くことにしてみました。

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我らが太田資正の父・資頼(文明16年(1484年)~天文5年(1536年))が、太田氏所縁の越生の龍穏寺から、月江正文の弟子・布州東播を招いて創建したのが、この洞雲寺だそうです。

岩付太田氏の本拠地は、道真・道灌の時代は、河越(川越)や越生の付近。
資頼の時代には、河越や越生のあたりは北条氏の攻勢を受ける地域になってしまい、資頼は東の岩付(岩槻)に逃れるように拠点を移していきます。それに合わせて、太田氏所縁の寺院等も岩付に移すことが必要だったんでしょうね。



(山門)

この山門は、焼失したとの記録が無いため、太田資頼の時代のものがそのまま残っていると考えられるのだとか。
ということは、資正の時代には既にこの地にあった建築物ということになります。

資正時代に立っていた建築物が今に残されているとは知りませんでした。
嬉しいですね。



(山門にかかる寺院名)

「加倉山洞雲寺」とあります。
この付近は加倉。
加倉の丘陵に乗って建てられているのを、加倉山を称しているんですね。


(由緒記)

資頼の時代に、この付近に鬼火が出たので、これを鎮めるために布州東播が招聘された・・・という話は興味深いですね。
資正が、天文元年にこの寺で三楽斎になった、というのは時代が合わないので誤伝ではないかと思います。

洞雲寺の位置を、地形図上で示すと、↓のような感じ。

岩槻城・芳林寺・洞雲寺・知楽院・久伊豆神社

(洞雲寺の所在地)

洞雲寺があるのは、日光御成街道と岩槻城の大構が交差する加倉口の少し外側。

加倉の久伊豆神社の近くです。

軍事的には、街道に面した高台の上に位置しているため、この街道に沿って岩付(岩槻)に攻め込んでくる敵に対して、攻撃を加えやすそうな場所です。
寺院は、戦乱ともなると領主たちの陣に使われたもの。

資頼が、この地に洞雲寺をつくらせたのは、いざという時に軍事拠点にすることも考えていたからではないか・・・と、妄想してしまいました。