言いたいことは、タイトルの通りです。

『戦国時代の後北条氏の関東覇権を決定付けたのは、同氏が江戸城を手にしたことである。大永4年(1524年)の江戸城攻略が、後北条氏の関東制覇を可能にしたのである。』

それが、関東の地形を考えながら、私が着いた結論です。

そう考える切っ掛けになったのは、河越城の地形的な堅牢性への気付きです。

地図で見る太田資正の世界 (8)武州松山城と河越城」で見たように、河越城の北方に対する守りの堅さは異常です。

河越城が乗るのは、北に向けて突き出た親指のような形の台地(川越台地)。
西、北、東の三方を①台地の傾斜、②赤間川、③入間川で守られたこの城は、北関東の諸勢力から見れば、本当に厄介な存在です。
南方の勢力がこの城を取れば、北に対して突き付けられた鋭い刃となる城。反撃しても落とすことは容易ではありません。
仮に一度落としても、南に対して守りが無いこの城を、北側の勢力が維持することは困難を極めます。早晩、南方の勢力に奪い返されることになります。
(下図参照)

河越城と入間川


居城であったこの城を南方の後北条氏に奪われ北に退いた時、関東管領・扇谷上杉氏の命運は決まったと言えるでしょう。


ここまでは、これまで何度か書いてきたこと。
ここで考えたいのは、なぜ扇谷上杉氏が、後北条氏に河越城を奪われてしまったか、です。

河越城は、西・北・東への守りは堅い城ですが、南には自然の障害物がありません。南方、即ち武蔵野台地をを面で制圧すれば、河越城は自然と落ちます。

武蔵野台地を面で制圧する・・・。
言うは易し、行うは難し、とはまさにこのこと。

後北条氏は、小田原、玉縄を押さえて相模国を制圧したからそれが容易だった、と漠然と考えてきましたが、そんなに単純ではありません。

小田原を基軸にした当初の後北条氏が河越城に迫ろうとしても、その前には多摩川があります。多摩川の先の武蔵野台地には扇谷上杉氏の被官たちの城が数多く存在していました。それを、江戸城の太田氏(江戸太田氏)と、河越城の上杉氏が束ねていた構造です。

多摩川を越えて、これらを個別撃破していくのは簡単なことではないのです。

※ 後北条氏が江戸城を攻略する以前、大永4年年初時点の扇谷上杉氏と後北条氏の主な拠点を地形図上に置いてみました。この時点では、後北条氏はまだ多摩川を越えて武蔵野台地に侵攻することに成功していません。


では、当時の後北条氏(当主は2代目の氏綱)に何故それが可能だったのか。
そこで出てくるのが、大永4年(1524年)の江戸城・江戸太田氏の調略です。

江戸太田氏は、扇谷上杉氏の家宰であった太田道灌の直系の子孫でしたが、道灌を暗殺されたことで、扇谷上杉氏との関係は悪化していました。
北条氏綱の時代には、扇谷上杉氏とは一種の冷戦状態にあり、江戸を中心とする独立した地域領主となりつつあったと言います。


当時、江戸城は扇谷上杉氏の居城であり、その城代を江戸太田氏が務めていました。
大永4年1月、扇谷上杉氏の当主・朝興が山内上杉氏との協議をするため城を出ている間に、江戸城は突如、北条氏綱の攻撃を受けます。城代の江戸太田氏は抵抗らしい抵抗もせず、開城し、氏綱に服属してしまうのです。
北条氏綱が、あらかじめ江戸太田氏に声を掛け、調略によって味方につけていたのでしょう。

この時の江戸太田氏の当主は太田資高。かの太田道灌の息子であり、父・道灌を先代の扇谷上杉氏当主に暗殺されたことで、その関係は悪化していたとも言います。
主家である扇谷上杉氏に父・道灌を殺されたことへの恨み、またいつ謀殺されるか分からないという不安。北条氏綱は、そこに付け込んだのでしょう。

武蔵野台地上の重要拠点である江戸城を押さえたことで、後北条氏の軍事行動は容易になります。
江戸城を基点にすれば、武蔵野台地を介して地続きの河越城は、実に攻めやすい城です。

江戸城と河越城を比べれば、ともに武蔵野台地に乗った城ではあるのですが、武蔵野台地からの連続性を「堀切」により切り離すことができた江戸城の方が、有利です。河越城は江戸城の方向に対して地形的にオープンであるのに対し、江戸城は河越城の方向からの攻めに備えがあることになるのです。

江戸城堀切


江戸城を基点とする勢力と、河越城を基点とする勢力の武蔵野台地上での覇権戦争は、ガードをしつつパンチを打ち込める江戸城側と、ノーガードでパンチをクリダスのみの河越城側の戦い。
初めは互角に見えても、やがてダメージに差が出ます。

河越城が、後北条氏のものとなるのは、天文6年(1537年)。江戸城が後北条氏側についてから13年後のことです。

この間、扇谷上杉氏は、武蔵野台地から後北条氏を駆逐しようと死力を尽くした戦いを行いました。時に勝つこともあったようです。しかし、江戸城という要所を堅持されたことで、後北条氏を武蔵野台地から追い出すことは叶わず、次第に追い詰められていったのです。

言うなれば、勝敗は、江戸城を取られた時点で決まっていました。


江戸城を後北条氏に取られて以降の扇谷上杉氏は、将棋で言う「詰み」に入っていたと言えるかもしれません。

扇谷上杉氏が滅亡を免れるには、江戸城だけは取られてはならなかったのです。

逆に、合戦をすることなく一種の謀略で江戸城を手にした後北条氏は、扇谷上杉氏に対して「戦う前に既に勝った」状況を作り上げた、とも言えるでしょう。


※ ※ ※

後北条氏に寝返って、主家・扇谷上杉氏を滅ぼした江戸太田氏ですが、後北条氏にとって大切なのは江戸城であり、江戸太田氏ではない、という事実を次第に思い知らされていきます。江戸領は、江戸城に城代として入った遠山一族が実質的に統治するようになり、太田一族は次第にただのお飾りとなっていくのです。

やがて、実権を奪われ過ぎたと悟った江戸太田氏は、太田資正や房総の里見氏と組んで後北条氏に対して合戦(国府台合戦)を仕掛けますが、返り討ちにされて事実上の滅亡を迎えることになります。

永禄7年(1564年)の国府台合戦は、国府台にこもった里見・太田連合軍と、江戸城の北条勢の合戦でした。

江戸太田氏もまた、江戸城によって滅ぼされたと言えるかもしれません。

国府台合戦


※ ※ ※

【追記】
本稿は、地形を中心に据え、実際の出来事の経時的推移はざっくりとした知識しか無いまま(通勤電車の中で)書いたものです。

出来事の経時的な推移については、ちゃんと確認しなければならないと思い、黒田基樹「戦国関東の覇権戦争」(洋泉社)で情報を補完しました。

北条氏綱による大永4年の江戸城攻略の流れは、私のイメージと少し違っていました。

・氏綱は、江戸城攻略以前から多摩川の対岸の武蔵野台地上の拠点(勝沼城)を奪っていた。
(ただし、勝沼城は多摩川対岸と言ってもかなりの上流(青梅付近)。武蔵野台地に対する侵攻としてはまだ小さな一歩だったと言えそうです。江戸城と河越城が揃って健在だった扇谷上杉氏は、勝沼城を取られても一定の拮抗状態は保っていました)

・当時、江戸城は扇谷上杉氏の居城であり、江戸太田氏は城代だった。
(江戸太田氏がこの時既に地域領主化し、扇谷上杉氏とは没交渉になっていた、という私の理解は間違っていました。後で直します)

・氏綱は、扇谷上杉氏当主・朝興が、山内上杉氏との協議のために城を空けた時を狙って江戸城に攻撃を加えた。
(政略・調略だけでなく、軍事行動も起こしていたんですね。知識が間違っていました)

・江戸城代の江戸太田氏は、戦わずして降服。江戸城を氏綱に明け渡す。
(氏綱が、事前に江戸太田氏を内応させていたかについては、黒田氏は語りません。しかし、あまりにタイミングの良い留守中の城攻め、太田氏の無抵抗開城、その後の北条氏への服属を考えれば、予め調略がなされていたと考えた方が自然でしょう)

・江戸城が奪われたことを知った扇谷上杉朝興は、その時河越城にいたが、翌日には北の松山城に退避した。
(江戸城を取られたからには河越城では防衛できない、という判断が、朝興にはあったのでしょう。扇谷上杉朝興の迅速なこの判断は、本稿の江戸城の重要性考察と合致します。江戸城が落ちれば、河越城は持たないのです)

・江戸城喪失を危機と認識した両上杉氏(扇谷上杉、山内上杉)は、大永6年には連携して氏綱への反撃を実施。多摩川南岸の北条氏領国まで攻め込む。
(しかし、江戸城を奪還するには至らず、兵を引けば武蔵野台地は再び北条氏綱の支配下に戻ります)

・天文6年(1537年)、扇谷上杉氏は深大寺城を増築し、後北条氏の武蔵野台地侵攻の防波堤とすることを試みるが、後北条氏は深大寺城を迂回して河越城に攻撃を仕掛け、同城を攻略。
(深大寺城を増築しても、後北条氏はまともにこの城を攻めようとせず、河越城に直接攻撃を仕掛ける。この攻めを可能にしたのが、江戸城の存在だったのでしょう。脇をすり抜けられた深大寺城の扇谷上杉勢は、本来であれば河越城を攻める後北条氏を後ろから襲うことができたはず。しかし、その記録はありません。深大寺勢と河越勢で後北条氏を併殺することができなかったのは、江戸城の北条勢が深大寺の扇谷上杉勢を牽制したからでしょう。深大寺の扇谷上杉勢は、背後を江戸城の後北条氏勢に脅かされ、自由に動けなかったのだろうと、私は見ます。)

細部には、私の知識・認識の誤りがありました。しかし、大枠では「江戸城を取られたことで、扇谷上杉氏は武蔵野台地を維持できなくなった」という見方は、出来事の推移を追うことで、より信憑性が高まったと感じます。

どんなに激しく反撃しようと、江戸城を奪還できない以上、武蔵野台地の支配は維持できません。

やはり江戸城は、決して落としてはいけない城だったのです。