さいたま市岩槻の戦国武将・太田資正(三楽斎)のことを書き綴ってきた「太田資正のこと」。
先月に第13回や番外編(反省メモ)を書いて以来、仕事やプライベートでいろいろなことがあり、しばらくは再開するような余裕がありませんでした。
状況は基本的には何も変わっていないのですが、自分の心を“日常”に戻すため、再開してみようと思います。
※ ※ ※
天文17年1月16日に成立した和議によって、北条氏康と太田資正が対峙した岩付城(岩槻城)の攻防戦は終結した。
太田資正は、「他国衆」として小田原北条氏に服属することを条件に、岩付領を安堵された。
北条氏康は、武蔵国の統治権を脅かす唯一の存在であった太田資正を配下に収めたことに満足し、小田原に帰陣した。
ここから13年にわたる資正の北条服属期が始まる。
しかし、資正にこうした時期があったことが明らかになったのは、実はつい最近のことである。
「反北条の姿勢を貫いた」として知られる資正である。
そう讃えられた壮年期以降の資正の活躍が、若き日の雌伏の時代の存在を忘れさせてしまったのかもしれない。
少なくとも江戸期の史家も、それ以降の近代の史家達も、資正が氏康に服属した時代があったことに気づいていない。昭和に入っても、永禄2年に発行された「北条氏家臣知行役帳」に、資正が北条配下の他国衆として現れることを「小田原が勝手に書いたもの」と断じる史家がいたことが、それのことを物語っている。
その後、平成の世になり、関東地方の戦国時代の書状類が体系的に整理される中で、資正が二十代から三十代にかけて北条氏に服属していたことが明らかにされた。
「生涯、反北条の姿勢を貫いた」という資正評は、少なくとも二十代から三十代にかけては当てはまらないことになる。
ただし、資正がどの程度、北条氏に対して深く服従していたかは、実はよくわからない。
「他国衆」とは、領主としての独立性が認められた存在であった。
軍事的な役務を北条氏のために果たす以外は、内政は完全に自由であり、領地をどう統治しようと資正の勝手であった。しかも、資正が実際に軍務に駆り出されたのは、北条服属時代の後期になってからである。氏康は、岩付城を攻めた後は、関東管領・山内上杉氏の掃討に注力したのだが、この戦いに資正を呼び出すことはなかった。
掃討戦の展開地であった上野国と岩付との距離故に声が掛からなかったのかもしれないが、それ以上に、資正と上野の山内上杉勢との結び付きの強さが考慮された気配がある。
親しい上野国の上杉勢を攻めろと命じられれば、資正は再度北条に楯突く可能性がある。氏康は、これを嫌い、腫れ物を扱うように資正を呼ぶことを避けたように思われるのである。
もうひとつ面白い出来事があった。
資正の兄資顕の代から親北条であった重臣・上原出羽守が、氏康と資正の和議の直後に岩付を去っているのだ。
上原出羽守は、北条家に直接仕えたいと氏康に直訴し、結果、江戸衆に組み込まれることになる。
資正が、北条氏に深く服従する他国衆となったのであれば、北条氏との太いパイプを持つ上原出羽守は、岩付家臣団の中で特別な地位を保つことができる。なにも、岩付を退出する必要はなかったはずである。
にもかかわらず上原出羽守が、岩付を退出したのは、資正の北条服属が多分に形式的・方便的なものであり、和議さえなれば親北条家臣としての己が冷遇される、と見ていたからではないだろうか。
氏康も、資正を完全に服従させたと考えていたならば、上原出羽守の直訴を退け、「岩付に在って、太田家と北条家を繋げ」と命じたに違いない。
そうしなかったのは、氏康自身、資正がどこまで北条氏に服従するつもりなのか真意が読めず、ひとまず「敵でなければよい」という考え方で和議を結んだからではなかったか。
資正は、他国衆として小田原北条氏に服属し、敵では無くなった。
しかし、服従の度合いが不明確でおいそれと軍務にも引きずり出せない、やや不気味な存在として北条方から目されていたと考えることができる。
※
その資正であるが、氏康との和議以降に最初に行ったこととして記録に残っているのは、氏康が斡旋した北条方の国衆・大石氏の娘との婚儀であり、息子(次男)政景の誕生であった。北条に服属したのが天文17年1月、政景の誕生もこの天文17年のことであった。
「十月十日」を考えれば、資正の婚儀は、和議の直後だったに違いない。
氏康が仕組んだ、岩付太田氏取り込みのための政略結婚。それを速やかに進め、早々に男子を生ませたところに、資正という男の面白さがある。言ってしまえば、脇が甘い。
異本小田原記などを読むと、資正は、二番目の妻であるこの大石氏の娘を深く愛したようだ。
最初の妻との間に生まれた嫡男・氏資は後に後に父・資正を裏切ることになるのであるが、その背景には、資正が二番目の妻とこの子を寵愛したことがあるように思える。
氏康による岩付太田氏切り崩し策と分かりつつ、政略結婚の妻と息子を深く愛した資正は、戦国武将としては脇の甘いところがあったと言わざるを得ないであろう。もちろん、そうした欠点もまた、人間・太田資正の魅力ではあるのだが。
※
資正が、政治・軍事的に記録に残る動きを見せた最初の出来事は、岩付領・慈恩寺付近に残っていた古豪・渋江氏の掃討である。
北条氏康の岩付城攻めに協力し、岩付領主の地位を取り戻そうとした渋江氏であったが、氏康と資正の和議により、その道は断たれた。しかし、その勢力の一部は、依然として慈恩寺付近に居座ったままであった。
天文18年9月に、資正が慈恩寺宛に寺領安堵の判物を発行しているところを見ると、渋江氏掃討が本格化したのは、次男・政景誕生以降、おそらく天文18年の夏ごろからではなかったか。
軍事行動となれば、後に異本北条記で、岩付太田の武者大将とされた太田下野守もが駆け付けたことを想像してみたくなる。
北条勢が去った後に資正に与えられた領地の経営に一段落した太田下野守が、年が明けた天文18年の正月に、次男・政景の誕生の祝いに岩付城を訪ねた場面を思い浮かべてみたい。
下野守であれば、資正の次男誕生を祝いつつも、顔をしかめて苦言を呈したのではないか。
「めでたいことではありますが、御屋形様には、難波田家の奥方と嫡男・源五郎(氏資)さまがあることをお忘れめさるな」
資正が武州松山の難波田家に婿養子に入った時にも付き従った下野守である。資正の最初の妻である難波田家の奥方を味方する気持ちがあったはずである。
資正は、痛いところを衝かれ苦笑いする。
「そう怒るな、下野守。家督は継がせるのは源五郎だ。この赤子はいずこの名家の養子に出すことになろう。心配するな」
「源五郎」は、岩付太田氏代々の嫡男の幼名である。このときであれば、後の氏資が源五郎であった。
対して、後に元服して政景を名乗った次男は、幼名「源六郎」で呼ばれたようだ。
資正の言葉の通り、源六郎(政景)は、後に名家・梶原家に養子に出され、古河公方の奉公衆となる。資正自身が兄・資顕と家督争いをしないよう難波田家に婿養子に出されたのとよく似ている。兄弟で家督争いをさせないための太田氏伝統の方法だったのかもしれない。
これは全くの空想であるが、長男に家督を継がせるために他家に養子に出される、という経験をしていた資正の中には、源六郎(政景)に対する特別な想いが育っていたのではないだろうか。源六郎もまた、父のその想いに気づいていたのではないだろうか。
後に、単に「父子」と書くだけで、資正・政景親子のことだと分かるくらいに、関東にその名を轟かす武将となるこの父子であるが、その関係は、若き日にともに同じ不遇を味わったところから生まれたように思えてならない。
資正は、続けて言う。
「それより下野守、渋江だ。今年の夏には、慈恩寺寺領に残る渋江一族を残らず追い出す。稲の刈り取りの前だが、手勢はどれだけ集められそうか?」
「三百騎ほどであれば」
それを聞き、資正は満足げに頷く。
渋江氏の掃討は、資正が岩付領主として初めて国衆を召集した戦であり、領主としての地位を固める第一歩であった。そして当然、負けられぬ戦いであった。
渋江側に立て籠りをさせないためにも、資正は夏ごろに戦いを仕掛けたのではないか、と私は推測する。渋江氏追放の判物を発給したのが9月だったこととも、符合する。問題は、農閑期ではないため、兵農分離が進んでいなかった当時の関東では、攻める兵を十分に用意できない可能性があることだった。
これを資正は、岩付領各地の兵をかき集めることで対応したと、想像してみたい。
北条氏に服属した13年間は、しかし見方を変えれば、領国経営を固めて「岩付太田氏」を再興させるための雌伏の13年でもあった。
岩付太田氏の再興は、慈恩寺寺領からの渋江氏掃討から始まったと言えるだろう。
※
■次稿→「太田資正のこと ~15.北条服属時代②~」
■前稿→「太田資正のこと ~番外編(反省メモ)~」
■目次→「太田資正のこと ~序~」
先月に第13回や番外編(反省メモ)を書いて以来、仕事やプライベートでいろいろなことがあり、しばらくは再開するような余裕がありませんでした。
状況は基本的には何も変わっていないのですが、自分の心を“日常”に戻すため、再開してみようと思います。
※ ※ ※
天文17年1月16日に成立した和議によって、北条氏康と太田資正が対峙した岩付城(岩槻城)の攻防戦は終結した。
太田資正は、「他国衆」として小田原北条氏に服属することを条件に、岩付領を安堵された。
北条氏康は、武蔵国の統治権を脅かす唯一の存在であった太田資正を配下に収めたことに満足し、小田原に帰陣した。
ここから13年にわたる資正の北条服属期が始まる。
しかし、資正にこうした時期があったことが明らかになったのは、実はつい最近のことである。
「反北条の姿勢を貫いた」として知られる資正である。
そう讃えられた壮年期以降の資正の活躍が、若き日の雌伏の時代の存在を忘れさせてしまったのかもしれない。
少なくとも江戸期の史家も、それ以降の近代の史家達も、資正が氏康に服属した時代があったことに気づいていない。昭和に入っても、永禄2年に発行された「北条氏家臣知行役帳」に、資正が北条配下の他国衆として現れることを「小田原が勝手に書いたもの」と断じる史家がいたことが、それのことを物語っている。
その後、平成の世になり、関東地方の戦国時代の書状類が体系的に整理される中で、資正が二十代から三十代にかけて北条氏に服属していたことが明らかにされた。
「生涯、反北条の姿勢を貫いた」という資正評は、少なくとも二十代から三十代にかけては当てはまらないことになる。
ただし、資正がどの程度、北条氏に対して深く服従していたかは、実はよくわからない。
「他国衆」とは、領主としての独立性が認められた存在であった。
軍事的な役務を北条氏のために果たす以外は、内政は完全に自由であり、領地をどう統治しようと資正の勝手であった。しかも、資正が実際に軍務に駆り出されたのは、北条服属時代の後期になってからである。氏康は、岩付城を攻めた後は、関東管領・山内上杉氏の掃討に注力したのだが、この戦いに資正を呼び出すことはなかった。
掃討戦の展開地であった上野国と岩付との距離故に声が掛からなかったのかもしれないが、それ以上に、資正と上野の山内上杉勢との結び付きの強さが考慮された気配がある。
親しい上野国の上杉勢を攻めろと命じられれば、資正は再度北条に楯突く可能性がある。氏康は、これを嫌い、腫れ物を扱うように資正を呼ぶことを避けたように思われるのである。
もうひとつ面白い出来事があった。
資正の兄資顕の代から親北条であった重臣・上原出羽守が、氏康と資正の和議の直後に岩付を去っているのだ。
上原出羽守は、北条家に直接仕えたいと氏康に直訴し、結果、江戸衆に組み込まれることになる。
資正が、北条氏に深く服従する他国衆となったのであれば、北条氏との太いパイプを持つ上原出羽守は、岩付家臣団の中で特別な地位を保つことができる。なにも、岩付を退出する必要はなかったはずである。
にもかかわらず上原出羽守が、岩付を退出したのは、資正の北条服属が多分に形式的・方便的なものであり、和議さえなれば親北条家臣としての己が冷遇される、と見ていたからではないだろうか。
氏康も、資正を完全に服従させたと考えていたならば、上原出羽守の直訴を退け、「岩付に在って、太田家と北条家を繋げ」と命じたに違いない。
そうしなかったのは、氏康自身、資正がどこまで北条氏に服従するつもりなのか真意が読めず、ひとまず「敵でなければよい」という考え方で和議を結んだからではなかったか。
資正は、他国衆として小田原北条氏に服属し、敵では無くなった。
しかし、服従の度合いが不明確でおいそれと軍務にも引きずり出せない、やや不気味な存在として北条方から目されていたと考えることができる。
※
その資正であるが、氏康との和議以降に最初に行ったこととして記録に残っているのは、氏康が斡旋した北条方の国衆・大石氏の娘との婚儀であり、息子(次男)政景の誕生であった。北条に服属したのが天文17年1月、政景の誕生もこの天文17年のことであった。
「十月十日」を考えれば、資正の婚儀は、和議の直後だったに違いない。
氏康が仕組んだ、岩付太田氏取り込みのための政略結婚。それを速やかに進め、早々に男子を生ませたところに、資正という男の面白さがある。言ってしまえば、脇が甘い。
異本小田原記などを読むと、資正は、二番目の妻であるこの大石氏の娘を深く愛したようだ。
最初の妻との間に生まれた嫡男・氏資は後に後に父・資正を裏切ることになるのであるが、その背景には、資正が二番目の妻とこの子を寵愛したことがあるように思える。
氏康による岩付太田氏切り崩し策と分かりつつ、政略結婚の妻と息子を深く愛した資正は、戦国武将としては脇の甘いところがあったと言わざるを得ないであろう。もちろん、そうした欠点もまた、人間・太田資正の魅力ではあるのだが。
※
資正が、政治・軍事的に記録に残る動きを見せた最初の出来事は、岩付領・慈恩寺付近に残っていた古豪・渋江氏の掃討である。
北条氏康の岩付城攻めに協力し、岩付領主の地位を取り戻そうとした渋江氏であったが、氏康と資正の和議により、その道は断たれた。しかし、その勢力の一部は、依然として慈恩寺付近に居座ったままであった。
天文18年9月に、資正が慈恩寺宛に寺領安堵の判物を発行しているところを見ると、渋江氏掃討が本格化したのは、次男・政景誕生以降、おそらく天文18年の夏ごろからではなかったか。
軍事行動となれば、後に異本北条記で、岩付太田の武者大将とされた太田下野守もが駆け付けたことを想像してみたくなる。
北条勢が去った後に資正に与えられた領地の経営に一段落した太田下野守が、年が明けた天文18年の正月に、次男・政景の誕生の祝いに岩付城を訪ねた場面を思い浮かべてみたい。
下野守であれば、資正の次男誕生を祝いつつも、顔をしかめて苦言を呈したのではないか。
「めでたいことではありますが、御屋形様には、難波田家の奥方と嫡男・源五郎(氏資)さまがあることをお忘れめさるな」
資正が武州松山の難波田家に婿養子に入った時にも付き従った下野守である。資正の最初の妻である難波田家の奥方を味方する気持ちがあったはずである。
資正は、痛いところを衝かれ苦笑いする。
「そう怒るな、下野守。家督は継がせるのは源五郎だ。この赤子はいずこの名家の養子に出すことになろう。心配するな」
「源五郎」は、岩付太田氏代々の嫡男の幼名である。このときであれば、後の氏資が源五郎であった。
対して、後に元服して政景を名乗った次男は、幼名「源六郎」で呼ばれたようだ。
資正の言葉の通り、源六郎(政景)は、後に名家・梶原家に養子に出され、古河公方の奉公衆となる。資正自身が兄・資顕と家督争いをしないよう難波田家に婿養子に出されたのとよく似ている。兄弟で家督争いをさせないための太田氏伝統の方法だったのかもしれない。
これは全くの空想であるが、長男に家督を継がせるために他家に養子に出される、という経験をしていた資正の中には、源六郎(政景)に対する特別な想いが育っていたのではないだろうか。源六郎もまた、父のその想いに気づいていたのではないだろうか。
後に、単に「父子」と書くだけで、資正・政景親子のことだと分かるくらいに、関東にその名を轟かす武将となるこの父子であるが、その関係は、若き日にともに同じ不遇を味わったところから生まれたように思えてならない。
資正は、続けて言う。
「それより下野守、渋江だ。今年の夏には、慈恩寺寺領に残る渋江一族を残らず追い出す。稲の刈り取りの前だが、手勢はどれだけ集められそうか?」
「三百騎ほどであれば」
それを聞き、資正は満足げに頷く。
渋江氏の掃討は、資正が岩付領主として初めて国衆を召集した戦であり、領主としての地位を固める第一歩であった。そして当然、負けられぬ戦いであった。
渋江側に立て籠りをさせないためにも、資正は夏ごろに戦いを仕掛けたのではないか、と私は推測する。渋江氏追放の判物を発給したのが9月だったこととも、符合する。問題は、農閑期ではないため、兵農分離が進んでいなかった当時の関東では、攻める兵を十分に用意できない可能性があることだった。
これを資正は、岩付領各地の兵をかき集めることで対応したと、想像してみたい。
北条氏に服属した13年間は、しかし見方を変えれば、領国経営を固めて「岩付太田氏」を再興させるための雌伏の13年でもあった。
岩付太田氏の再興は、慈恩寺寺領からの渋江氏掃討から始まったと言えるだろう。
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■次稿→「太田資正のこと ~15.北条服属時代②~」
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