写真は、太田資正が、岩付(岩槻)領内の古刹・慈恩寺に出した判物(花押が付された発給文書)。近所の郷土資料館で実物を拝むことができました。(入館無料、展示物の撮影OKというありがたい資料館でした)
この判物が出されたのは、天文18年(1549年)。
資正が、北条氏康に岩付城(岩槻城)を包囲され、降服した年の翌年のことです。
判物には、地元の豪族・渋江氏らに占拠されていた僧坊を資正が慈恩寺に戻し、同寺のものと保証することが記されています。
領国支配の確立に励んだ時代の資正の動き。その一端がこの判物から窺えます。
※
<追記>
この判物から、慈恩寺と太田資正の間には、何か特別なやり取りがあったのではないか?と空想を広げ、とある物語を書いてみました。
この判物が出されたのは、天文18年(1549年)。
資正が、北条氏康に岩付城(岩槻城)を包囲され、降服した年の翌年のことです。
判物には、地元の豪族・渋江氏らに占拠されていた僧坊を資正が慈恩寺に戻し、同寺のものと保証することが記されています。
領国支配の確立に励んだ時代の資正の動き。その一端がこの判物から窺えます。
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<追記>
この判物から、慈恩寺と太田資正の間には、何か特別なやり取りがあったのではないか?と空想を広げ、とある物語を書いてみました。