昨日は学生時代からの友人ジャワ氏 に誘われ、彼の奥さんが参加する第九演奏会に行ってきました。

市民コーラスが参加する第九演奏会なので、市民オーケストラと一緒に地元のホールで?と勝手なイメージを持っていましたが、チケットを見てびっくり。会場は上野の東京文化会館でオーケストラは東京フィル、ソロにはあの米良美一も名を連ねるハイレベルな第九演奏会だったのです。
当日もホールが広すぎて、舞台上のジャワ夫人を探すのに苦労しました(笑)。

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さて、我々夫婦の座席は三階席で舞台から見て右の端。なんだか隅っこ?と思いましたが、実はいい席でした。バイオリンの主席奏者の方の弾きっぷりが丁度いい角度で見えるのです。
演奏が始まってから、第四楽章でコーラス隊が出てくるまでは、このバイオリン主席奏者の方の弾きっぷりに魅せられました。

バイオリンの弓は、力強い音を出す時は根元でガッガッと削るように弾き、軽妙な音の時は弓の先で撫でるように弾きます。そして、艶のある音、あるいは滑らかに溶け合う音を響かせるには、全弓をフルに大きく使います。
弓の使い方も、ある時は滑らかに入り滑らかに滑らかに離れ、またある時は力強く入り力強く離れます。

名演奏者の弓使いには、見ているだけで惚れ惚れしてしまいます。

例えて言えば、達人が演じる空手の型のような味わい。

弓先をふわりと使うあの弾き方は、空手の型にある手首から先を使った受け捌き。弓の根元の力強い弾き方は肘打ちや膝蹴りなど体幹に近い部位を使ったパワフルな打撃。全弓を使って様々な音を奏でるスラーは、一つの運足で様々な手技を繰り出す様に瓜二つ。そして全弓を使ってビブラートを効かせて一つの音を聴かせる弾き方は、大きく踏み込ん突きを極める姿そのもの。
しかめ極めの後には残心とも言うべき弓の構えが!

「これは演奏ではない。演武だ!」
と終始興奮しながら鑑賞ならぬ観賞した一時間でした。

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しかし、第九は第四楽章からコーラスが入ると、一気に雰囲気が変わります。
あれほどの輝きを放っていたオーケストラは脇役に押しやられ、武器(楽器)を持たぬ無手の市民の声量が全てを圧倒しはじめます。
演武を見ていた気分はサッと展開し、思いは欧州史に馳せます。コーラスに押されるオーケストラは、武器や騎馬術、そして富を独占することで特権を許された貴族階級に重なり、オーケストラを圧するコーラス隊はブルジョワ革命の主役になった市民たちの姿に重なります。

幼少からの訓練を必要とした騎馬術がなければ戦争に勝てなかった時代は、銃や大砲の発達によって去り、戦場の主役は市民たちからなる銃を持った歩兵の時代へ。
「この調べではない」と叫ぶテノール(でしたっけ?)は大砲であり、続くコーラスは歩兵の銃兵隊。騎馬隊は歩兵たちをサポートする脇役になっていくのです。

貴族に特権を許す代わり、自らが血を流すことは少なかった市民たちが、貴族から特権を剥がす代償として果たさねばならなくなった兵役の義務。
「歓びの歌」を歌い叫ぶコーラス隊の姿は、国民国家の理念と制度の中で時に絶望的な戦況において隊列をなして突撃する国民兵の姿を連想させます。

ならば、「この調べではない」と叫んだテノールは、後にフランス市民を祖国のために自ら突撃する国民兵に変えていった若き日のナポレオンだったか。

古い制度を打ち崩し、市民が主役になれる近代の訪れを称える「歓びの歌」。しかし、それは本当に「歓び」と称えてよいものだったのか? 多くの「歓び」を予感しつつ、そこに伴う大いなる悲劇は見えていたのか?

素晴らしい演奏の迫力の前に、まとまらないままにそんなことを次々に考えてしまった第九でした。

演奏会後は久しぶりにジャワ氏と、普段人に聞いてもらえない話(上に書いたような話も含め)をあれこれし、スッキリしました。


やはり年の瀬は第九に限りますね。
誘ってくれてありがとう>ジャワ夫妻

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私のテキトーな第九論は、考えてみたら、この本の劣化コピーだったような気がします。
いい本です。
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