先週の金曜日は、四国のフォー社長(→過去記事 参照)のところに再度出張。

正式にコンサル案件を受注してきました。


その後は、「またはみ唐さんのフォーが見たい」とごねる社長を振りほどき(社長、ごめんね)、とんぼ返りで東京へ。

実はこの日、空手仲間のRさん(日系フィリピン人、元松涛館系有段者)が所属している教会で、ゴスペル発表会があり、Mさん(日本人女性、技きれい)たちと一緒に誘われていたんですわ。


開演30分後になんとか教会に到着。


ええ・・・っとRさんは・・・?


はみ唐:「Rさん、どこ?」

Mさん:「わかんない。あの子ちっちゃいから、誰かの後ろに隠れちゃってるのかも」

などと言っていたら、発見。

イエスを生んだマリアを祝福する東方の3賢者のそばで踊りながら歌っている女の子の群れの中にいました。これで安心して座って見ることができる。


  *  *  *


教会でゴスペル。

初めての経験でしたが、生声の響きを目の前で聞くと、体に響いてくるものがあって気持ちがいいもんです。楽器の響きもいいけど、人の声の響きも素敵です。


その一方で、どうしても気になってしまうのが、宗教色

まあ、宗教の歌だから当然過ぎることなのですが、歌われるキリスト崇拝の内容が、やはり一般的に日本人にはどこか違和感があるように思います。


「キリストのこと、『King』とか『Lord』とか言うんだね」とちょっと驚いているMさん。


「King」は「王」、「Lord」は「主」。

神道の神様や、あるいは仏教の釈尊を思うと「王」や「主」として仕えられる神様ってのは、どこかしっくりこないものがあります。

日本人にとって神や仏は頼ったり、尊敬したり、畏れる対象ではあるのですが、仕える対象では(おそらく)ない。

ゴスペルの歌詞に出てくる、「仕える」というイメージが、おそらくは一神教の本質で、この本質ゆえに、キリスト教は日本ではどこか脱ぐ去れない違和感をもって迎えられるのではないか・・・。


歌声の気持ちよさと、歌詞の居心地の悪さ

失礼だけれど、そんなことを思ってしまいました。


  *  *  *


ステージが終わったあとは、みんなでRさんを尋ねに楽屋に。

はみ唐さんだけトイレに寄ってから楽屋に入ると、Rさんと教会の友だちと空手のメンバーがすでに仲良く話し込んでいました。

こいつら、本当にパーティ慣れしてるよなあ・・・と感心してたら、RさんとMさんが教会の人たちに、

Rさん:「コノ人ガはみ唐サン。空手がスゴイ人

Mさん:「そうそう、空手といえばはみ唐さんなんですよ

と紹介してくれるではないか。


おお、なんだ、キミたちは、そんなに俺の空手を評価していてくれたのか!


Mさん:「ほんとに、こんな空手オタクは他にいないと思う」

Rさん:「ソウ、空手マニア!」


あ、そう。

そういう「スゴイ」だったのね・・・。



ああ、そうさ確かに俺は空手オタクさ(認める)。

でもなあ、はみ唐さんごときを空手マニアと言ってるようじゃ甘いぜ!


本当の空手マニアってのはなあ・・・

こういう方やこういう方 のことを言うんだ!!!(←すみません)


わかったか!!!