「カラマゾフの兄弟」読み進めています。

改めて挑戦してみて思うのは、この話のテーマが近代文明とキリスト教の対決であり、そしてその表現として現れる登場人物たちの神学論争を楽しめなければ読破できるべくもない、ということ。

なかなかハードですが、今のところ、なんとかついていっています。

それにしても思うのは、「カラマゾフの兄弟」の時代にあっては近代文明の前に瀕死のキリスト教が、それまで社会に与え続けたその影響の大きさ。
聖書に記された、あの大工の息子の言葉がどれだけ西の人々の魂を救い、そして縛ったか。

特に、縛り続けた力に驚かされます。

東の仏典や四書五経にこれほどの力はあったのだろうか。

同じような力を持つのは、兄弟宗教であるユダヤ教とイスラム教くらいか。

この「神」の言葉の束縛力が、こえなければならぬ壁としてそびえ立ち、西において近代文明を生んだのはよく論じられるところ。

では東において、宗教がかくも強大な壁とはならなかったのはなぜか。

一神教でなかったからか?

それは結果であって原因ではないような気がする。
一神教だから強大な壁になったのではなく、強大な壁になりうる何かがあったから、一神教として続いたのではないか。

はみ唐さんが思うのは、これって仏教の「方便」の概念の有無が生み出した違いなのではないか、ということ。

方便は「悟りを得させるための相手に合わせた教え」のこと。
初期仏典に書かれたブッダの言葉はみな方便であり縛られてはいけないという論理のもとに創作されたのが大乗仏教。
キリスト教では不磨のな大典と化した始祖の言葉を相対化させてしまった仏教の大発明・方便。
方便の矛先は皮肉にも大乗仏教そのものにも向けられ、中国では道教に融合し、日本ではもはや仏典にほとんど権威をおかない国内宗派を生みました。

方便に手を出した時から、東の宗教は構造的にキリスト教的な拘束力や束縛力を捨てしまっていたのではないか。

だとしたら、方便を唱えた龍樹は、あるいは西を遥かに隔絶した革新的思想家であるとともに、近代のアジア的後退を生み出した張本人なのかもしれない。

ま、分かりませんが(笑

でも、東と西を分けたものの一つに「方便」を数えるのは間違いではないように思います。

もしも、キリスト教に方便の概念が生まれていたら・・・少なくとも「カラマゾフの兄弟」という小説はこの世に生まれなかったに違いない。