5月13日はリードオルガンコンサートに行きました。
演奏会裏方業も気がつけば結構長いことやっているし、ふと見てみれば演奏家のYouTubeページはリードオルガンの演奏がやたら多くなっているのにもかかわらず、
リードオルガン生演奏会に行くのはこれが初めてでした
この日会場に来ていたオルガンは3台。
その1台めは・・・。
1910年(明治43年)
アメリカ製 「ESTEY ORGAN」
〜キャンプオルガン〜
名前の通り、野外にも持っていける、折りたたみ式のリードオルガンです。
リードオルガンの修復家の説明によると、
リードオルガンとは、「リード」を発音体とするオルガン。吸引式のものを「リードオルガン」と呼び、主に北米で普及し、日本のリードオルガンは北米式を模倣して作られています。
1880年代に国産のリードオルガンが相次いで作られるようになり、1980年代後半まで教育の現場で使われ、この「リード」の音色とともに数多の「うた」を木造の教室で学びました。
とのことです。
私、歴史の授業も全然真面目に受けていなかったし・・・、1910年とか明治43年とか聞いても、イメージできなくて
ですが、なんというかこういうタイミングで、ちょうど『あゝ野麦峠』の本を読んだところだったんです。
このオルガンが作られた1910年=明治43年あたりの日本がどういう時代だったかこの本に書かれているので、抜粋してみました。
明治42年11月20日午後2時、野麦峠の頂上で1人の飛騨の工女が息を引きとった。名は政井みね、二十歳、信州平野村山一林組の工女である。またその病女を背板にのせて峠の上までかつぎ上げて来た男は、岐阜県吉城郡河合村角川の政井辰次郎、死んだ工女の兄であった。
美人と騒がれ、百円工女ともてはやされた妹みねの面影はすでにどこにもなかった。
やつれはててみるかげもなく、どうしてこんな体で10日前まで働けたのか信じられないほどだった。
峠の茶屋に休んでソバがゆと甘酒を買ってやったが、みねはそれにも口をつけず、「アー飛騨が見える、飛騨が見える」と喜んでいたと思ったら、まもなく持っていたソバがゆの茶碗を落として、力なくそこにくずれた。
「みね、どうした、しっかりしろ!!」
辰次郎が驚いて抱きおこした時はすでにこと切れていた。
ちょうどそのころ、東京では帝国ホテルに朝野の名士を招いて「生糸輸出世界一大祝賀会」が盛大に催され、わが国蚕糸業界の洋々たる前途をたたえる祝辞が述べられ、絹のもすそをひるがえした華やかな舞踏会も開かれていた。
横須賀軍港では国産戦艦第一号「薩摩」が完成し、帝国海軍はいよいよその巨歩を太平洋に踏み出そうとしていた。
巷には女子学生のはでなリボンとハイカラ節が流行し、島村抱月、松井須磨子らの文芸協会も旗上げし、イプセンの『人形の家』など、華やかな幕開きを待っていた。
どれもこれもみねの死んだ野麦峠とはあまりにも遠い国のできごとであった。
人はよく御維新とか、文明開化と簡単にいうが、鹿鳴館のはなやかさにしても、電信電話も、汽車も汽船も鉄砲も軍艦も、イルミネーションも、さては洋楽洋書も、技術者を招いても、それには大変なゼニが必要だったはずである。そのゼニはいったいどこから持ってきたのか?
「生糸」というものがなかったら、明治は当然もっと変わったものになっていたことはまちがいない。
「あゝ野麦峠」 山本茂実著 より。
おそらく1889年生まれだったみねさん、その短い一生の中でリードオルガンの音を一度でも聴いたことがあったかなぁ、あったといいなぁ・・・、そんなことを思いながら、音色を聴いていました。
日本の明治時代にアメリカで作られていたこのオルガンが、平成も終わろうとしているこの時代になぜか日本にあり、完全に修復されてその音を間近で聴けるということはなんだか奇跡のようで・・・。
とても贅沢、そしてとても幸せなことなんだなぁと思わずにはいられませんでした。
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こちらのブリュートナーも全く同じ頃に作られた楽器です。



