やさしい嘘 出会い/2
タンタンタンタン…
階段を下りていくと、そこには秋人以外がすでに食卓を囲んでいた。
秋人の顔を見て声をかけてきたのは、弟の流人だった。
「はよ。秋人、早いね。」
「はよっじゃねぇよ。兄ちゃんと呼べって。」
流人は、秋人の父親と二回目の奥さんとの子供だ。
秋人にとっては、よく懐いてくれて苛めがいのある弟だった。
「んなことはいいから。早く座って食べよ。」
まだ八歳だっていうのに最近は口ばっかり鍛えられて、まったくかわいくないよな。
秋人はスリッパを引きずりながらドンッと腰かけた。
「うーまそ。いただきます。」
流人は秋人が来るのを待っていたようで、秋人がそう言うのを聞いて自分も続いた。
「いただきまーす。」
そこでやっと新聞を見ていた二人の父幸太が顔をずらした。
「ん。いただこうかな。」
それを見ていた裕子はクスッと笑った。
「幸太さん、二時間も新聞読んでると思ったらずっと寝てるんだもの。私も…いただきます。」
それを見ていた秋人がニヤッと笑って言った。
「新聞読むためにリビングで二時間も。なんでだろーね、裕子さん。」
運悪くコーヒーカップを口に運んでいた幸太は、思わず新聞にコーヒーのシミを作ってしまった。
「そりゃ、裕子さんが心配なんでしょ。ね、秋人。」
「だーかーら、お前は兄ちゃんと呼べって。」
その姿を見ていた裕子はまたニッコリと笑顔で嬉しそうだった。
秋人は朝食を食べ終わり、リビングでテレビを見ながらくつろいでいた。
流人もそれにならって、ソファに座りクッションを抱き込んでいた。
「秋人、ちょっとおいで。」
幸太は仕事に行く準備ができたのか和服姿でリビングに現れた。
「いーよ、テレビ見てる。ここでダメなの。」
「んー、まぁいいか。」
そう言うと幸太は、着物が着崩れないように気をつけながら近くのシングルソファに腰をかけた。
「秋人に頼みたいことがあるんだ。」
「ん。どういうこと。」
それまで幸太が座っても気にせずテレビを見ていた秋人が、チラッと目線を上げた。
「んー…。昨日急に長期滞在の予約が入ったんだ。」
秋人は面倒を押し付けられるのではないかと嫌な予感がした。
「俺、面倒なことは嫌だ。」
そう言う秋人を見て、やっぱりかと頭をかきながら幸太は話を続けた。
「そのお客様、一か月の滞在を予定してらっしゃるんだが…少し困ってね。」
秋人は不思議な気持ちだった。
幸太は代々続く老舗旅館風月のオーナーで、今でもしっかりと現場に立って指揮をしている。
幼い頃からその姿を見てきたのだから、こちらの旅館で満足していただけないような客には丁寧に断りを入れることも知っていた。
旅館の中で生きる伝統を守ることが第一と考えた、先代の大女将に育てられたのだから仕方ないことだった。
いつもと様子が異なる幸太を怪しんで顔をしかめた。
「何いってんの。そんなに困る客なら断ればいいじゃん。」
「うーん。…お断りを入れたんだよ。当方には英語を堪能に扱える者がおりませんので、ご不便おかけしてしまうと思いますが…って。」
それは海外から電話に対応するためにと作ったマニュアル通りの答えだった。
幸太は本当に困りきった顔で秋人の顔を見つめていた。
「いや、俺英語なんて話せないし。」
「わかっているよ。ただ…そのお客様、そこまで話すと急に流暢な日本語でかまいませんって。」
秋人には意味がわからなかった。
「…何を頼みたいの。」
「いや…あの、それがなぁ。民さんが急に田舎に帰ってしまったんだよ。」
そこまで聞いてようやく意図が見えてきた。
民は先代の時から働いてくれていて昔は幸太の教育係をしていた。
「つまり手伝えって言いたいんだ。」
風月は母屋と数戸の離れに分かれていて、客が使用するのは離れのみ。
離れ一戸一戸に一人の仲居がお世話するというのが風月のスタイルだった。
「まさか。そうじゃあないんだよ。」
癖なのか頭をかきながら幸太が続けた。
「そのお客様ね、どうもお子様連れの方らしいんだ。用事があってその子を残して出かけるかもしれないから、一緒に遊んで日本を満喫させてほしいと頼まれたんだよ。」
「で、それを民さんに頼んだんだ。」
秋人は訳知り顔でニヤッとした。
「はぁ…。そうなんだよ。民さん、離れの仕事を中堅の仲居さんが指揮して、自分は風月の仕事ができないことがそうとうショックだったみたいでね。」
「…でも、なんで民さん。民さん子供が好きとは思えないけど…。」
チラッと流人の方に目をやって秋人が言った。
それに気づいたのか、今まで静かにしていた流人が口をはさんだ。
「そうだよっ。あのばぁさん、俺のことよっぽど気に入ってたしね。」
流人は嫌みたっぷり皮肉をこめて秋人に言った。
「先方のご所望で、孫がいそうな年の女性がいいって話だったんだ。でも、民さんが子供が大好きだってちゃんと断わったよ。」
幸太は少しイライラしながら言った。
「それに、民さんが消えた日すぐに先方に電話したんだ。どうやら先代の時のお客さまで、どうしても風月が良いらしくてね。誰でもいいから、子どもの扱いに慣れている者がいいって言うんだ。その…先代のお客様じゃ邪険にはできないだろう。」
「で、秋人にお鉢が回ってきたわけね。」
流人はまだ怒っているのか秋人にベッタリくっついた。
「そうだよね。いーつもお子様相手にしてるし。その代表から言わしてもらうと、本当っ適任。」
すっかり不機嫌になってしまった流人に、秋人は困ったように溜息をついた。
「ちょっと待ってよ。俺、そんな先代のお客さん相手にできないよ。」
どうにかこの面倒な申し出を断れないかと、秋人は適当な理由をつけて断ろうとしていた。
なんせ相手は先代のお客様。本当だったら、秋人の出番などないはずなのだ。
今年で大学三回生になり、自由な時間が増えると楽しみにしていた秋人にとっては、本当に大迷惑な話だった。
「まあまあ秋人…。その、バイト代もちゃんと出すし…まあそれなりに。それに、旅行に行けると思ってたら中々いい気分じゃないか。」
「………え。」
聞き捨てならない事を言った幸太に驚いたのは、秋人だけではなかった。
「ちょっと父さん。秋人が旅行ってどういうことなの。」
「流人もそんなにかっかしないでくれよ。」
幸太は困ったように頭をかいて、首をまわした。
「お客様の頼みでね。なんだかよくわからないけど…。まあ、多分会えばわかるから。」
ようするに、何もわからないのかと感じ取った秋人と流人は目を見合わせた。
「父さん、秋人がどっか行くなら俺も行くからね。」
流人のその言葉に、幸太は席を立って、困り顔で手をあげた。
やさしい嘘 出会い/1
やさしい嘘
温かく陽気な春の風は、少なからず誰かの気持ちを助ける。
だけど、そんな陽気さとは関係ない人間もいる。
秋人は自分の部屋で目が覚めた。
自分の部屋でよかったと思う。
裏門の玄関で目が覚めることがよくある。
夜中に遊びまわって、家に帰った時間さえわからない。
そんなことばかり繰り返していると、普通の人間は境界線がなくなっていく。
ずっと前、秋人が高校生の時、補導した警官が言っていた言葉を思い出す。
「境界線かぁ…。」
タンタンタンタン…
扉の外から階段を踏む音が聞こえる。
秋人の部屋の前で足音は止まった。
どうやら足音の主は躊躇しているようだった。
足音の主は深く息を吐いて扉をノックした。
コン…コンコン
そっと扉を開けて部屋に入ってきた。
「秋人くん、その…ご飯できたから。」
秋人は寝たままの体勢を変えず、足音の主をじっと見た。
しばらくそのままだった秋人に、相手はすっかり困っているようだった。
急に秋人はニカッと笑い、ベッドの上で座りなおした。
「おはよう、裕子さん。」
「あ、あの…おはよう。」
足音の主裕子は、秋人の真意がわからず困った笑いを浮かべた。
それでも裕子にしたら、はじめて普通の会話をするのだから嬉しかったようだ。
西門家に来て二週間、まともに秋人と顔を合わすことさえ少なかったのだから。
「あの、じゃあ下でね。」
「はーい。」
はぁ
裕子さんもなぁ…
わざわざ初婚でうちの親父を選ばなくたって。
うちの親父なんか三回目だっていうのに。