21年前にロストック・リヒテンハーゲンで起きた難民襲撃の映像を見るのは、たとえそれがダイジェストであってもつらい。よく見ると、一部の地域住民は見物にとどまらず、積極的に加担している。もちろん一部の住民は難民を守ろうと試みたみたいだけれど、暴徒の勢いには対抗できなかった。
在特会のヘイトデモの映像を見るのもつらい。
ヘイトスピーチを叫んだり、人に暴力をふるう人の顔は、憎しみで歪んでいる。
なんでそんなにも憎しみを抱くのか。自分が全く知らない人に対して。
全く関係の無い人を、どうして殺そう・痛めつけようと思うのだろう。
そうすることによって、自分が抱える問題が無くなるとでも信じているのか。
在特会のヘイトデモに対するカウンター行動で、「あなたたちが探している答えはそこには無い」といったメッセージのプラカードを掲げる女性がいた。全くその通りだと思う。
当事者は、自分がやっていることが悪い・反社会的であると認識しているのだろうか。
「国のため」とか大義名分を掲げて、自分が正義の味方であると信じている人もいるらしい。
在特会が日弁連に人権救済を申し立てたのが良い例だ。
ネオナチや在特会とどう付き合うか。
いじめっこをいじめて/排除して、問題を解決できるか。
排除されたいじめっこは、どこに行けばいいのだろう。
レイシストを糾弾するだけで、問題を解決できるか。
暴力行為や陰湿ないやがらせ行為は厳しく取り締まるべきだとは思うけれど、
同時になぜその人がそういった行為に走ったか理解することが、共存への第一歩だと思う。
それは、彼らが主張する「正当性」ではなく、一人一人の生い立ちについて知るということ。
他人に暴力をふるったり嫌がらせをする人は、自分の中に、何らかの心の傷や葛藤を抱えているんだと思う。
今、心理学者アリス・ミラー
の著書、「魂の殺人ー親は子どもに何をしたか
」を読んでいる。その内容については、また今度。