嵐の合間を縫って29日、東京都美術館で開かれている「デ・キリコ展 不思議の世界へ、ようこそ。」(8月29日まで)を見てきた(写真)。シュルレアリスムの先駆けとなった「形而上絵画」で知られている。その独特な表現はファンが多く、私も好きな画家の一人だ。私がデ・キリコの作品を見たのは、2014年に開かれたパナソニック汐留美術館の展覧会以来、10年ぶり2度目だ。

 「形而上絵画」という言葉は難しい。「形而下」といえば形や物質で表わされていて、現実の中で私たちがたやすく認識できるものを指すから、「形而上」とはそれを超えてしまっているものをいうのだろう。

 イタリア人の両親を持ちギリシャで生まれたジョルジョ・デ・キリコ(1888~1978)は、アテネの理工科学校のあと、ドイツのミュンヘン美術アカデミーでも絵を学んだ。ミュンヘン時代に影響を受けたのが哲学者フリードリッヒ・ニーチェ(1844~1900)だった。ニーチェといえば、「神は死んだ」の言葉で知られる。中世ではこの世を創ったとされ、絶対的な権威だった神は近代になり、力を失った。背景には人間至上主義や産業革命、資本主義の台頭、科学の発展などがあった。

 美術もこうした時代の流れと無縁ではいられなかった。ルネサンス時代に生まれた遠近法や陰影法はそれから約500年、神話、キリスト、歴史など「3次元の物語」を絵画という2次元にまことしやかに描く、「神」とも言える絶対の技術だった。しかし、19世紀に起きた印象派やジャポニスム、写真の普及の影響もあり、現実にあるものを再現してみせるだけの絵画(アカデミズム)の存在理由が問われ始める。それを鋭敏に感じ取ったデ・キリコは、自分が受けたアカデミズムの教育に反旗を翻し、その破壊に向う。私はそう考えている。

 少し前置きが長くなったが、この展覧会の展示作品約100点の中にも、「形而上絵画」の正体を捉えるヒントがいくつもあった。

 例えば生涯で数百点に及ぶという自画像。その中で1922年ごろのもの(油彩)には、頬杖をついた我が身と対峙するルネサンス風の自身の胸像が描かれていた。これはまさに、ルネサンスの時代(アカデミズム)と戦う(を破壊する)姿勢を示したものだろう。

 「福音書的な静物Ⅰ」(1916年、油彩)は、「形而上学的室内」を代表する作品だ。画中画2枚にはそれぞれ、イオニア式の柱のシルエット、ビスケットと地図が描かれている。一見、遠近法を使っているような空間だが、それは奇妙に歪み、1つの消失点に収まっていない。奥の開いた扉も外界につながっているのかは判然としない。陰影法も歪められて、光がどちらから差しているのかもよく分からない。物語性の喪失と歪んだ遠近法・陰影法によって、見る者は、自分がどこにいて、何を見ているのかわからない「迷子」になる。これこそアカデミズムの破壊と言えるだろう。

 物語を断ち切った脈絡のない取り合わせは、「デペイズマン」と呼ばれる手法で、後にルネ・マグリット(1898~1967)らシュルレアリスムの画家たちに受け継がれることになった。

 並行して絵に登場するのがマヌカン(マネキン)だ。マヌカンには、これも長年アカデミズムとともに描かれてきた人間の表情がない。それが不安と謎を呼び覚ます。

 「予言者」(1914~15年、油彩)には、キャンバスを前にする絵描きらしいマヌカンが座っている。黒いキャンバスには白線で描かれた建物や人物らしい下描きがあるが、マヌカンには筆を持つための腕がない。つるりとした白い卵のような顔には、小さな丸の中に星型のような「眼」が描かれている。しかし眼はキャンバスに向わず、ぼんやりと虚空を見上げているだけだ。作品が描かれたのは第一次世界大戦が始まったころ。神をも恐れぬ人間たちの飽くなき殺し合いは、デ・キリコにも人間への不信や幻滅を感じさせただろう。この絵描き(マヌカン)は、デ・キリコ以外の何者でもないだろう。
 そして「形而上的なミューズたち」(1918年、油彩)には、顔にがらんどうな穴が開いたマヌカンが描かれた。第一次世界大戦終戦の年。闇の穴が開いた顔は、人間への「絶望」と殺戮の後の「虚脱」を意味しているとしか思えない。

 1924年の詩人アンドレ・ブルトン(1896~1966)による「シュルレアリスム宣言」以降、デ・キリコもグループに加わるが、のちに袂を分かち、ドラクロワらのフランス絵画やバロックの影響をうけた裸婦などを描くようになる。そして1960年代からは、開放感や明るさをもつ「新形而上絵画」を発表するが、初期の形而上絵画ほどの衝撃は生まなかった。

 小難しいことを散々書いたが、デ・キリコの絵の美しさについては言うまでも無い。形而上絵画にも、彼独特の色使いや形の魅力、そして何か夢を見ているような、引き込まれる世界がある。             (2024.5.30 風狂老人日記)