年をくって眠りが浅くなっているせいか、夢を見ることが多い。いや正確には、夢は毎日見ているのだろうが、夢を見ている最中に目覚めることが多い、そして夢の内容を覚えている、というべきなのだろう。

 3日前の夜は、こんな夢だった。

 私は珍しくスーツを着て、やはりスーツ姿の屈強な男3~4人と街を歩いている。気がつくと、そのうちの一人はヤクルトの村上宗隆選手だ。どこに行くか尋ねると、これから酒を飲みに、ある会場に行くのだという。どうやら私もお相伴にあずかるようだ。しかし、会場に着くと、村上選手がいない。「さっきまでいっしょだったんですがね」と私。「どうも急用で、来られなくなったみたいですね」と、会場にいた男性が教えてくれた。

 それは残念、と思いながら目が覚めた。その日はヤクルトが巨人に三連勝した日。祝勝会に呼ばれる訳はないのに、うれしさのあまり、そんな夢を見たのだろう。

 室生犀星(1889~1962)の作品に「よく見るゆめ」という詩がある。

 僕は気がつくと裸(はだか)で/ひるま街(まち)を歩いてゐたのであった/こんなことはあるべき筈(はず)ではないと/手をやって見ると何も着ていない/何と恥(はづ)かしいことだ/僕は何か着るものがないかと/往来(わうらい)を見まはしたけれど/ボロ切れ一つ落ちていなかった/(中略)かまわない/裸で歩いてやれと思った/自分は大胆に大きく/自分の踏むべき土を踏んでいった/はげしい往来に出て行ったけれど/ふしぎに人人は咎(とが)めなかった/人人は安心したような目つきで/自分を眺めた

 私も頻繁ではないが、衆目の前で裸で歩く夢を何度かみたことがある。私の場合、多くは温泉の大浴場が舞台だ。いくつもの大風呂が並んでいる。熱い風呂やぬるい風呂、薬草風呂、泡風呂とはしごをしているうち、自分の服がないことに気づく。必死にロッカーや脱衣場を探すが、服も財布も見つからない。どうやって自宅に帰ろうか。途方に暮れている間に目が覚める。

 若い頃よく見たのは、試験の夢。それにもパターンがある。

 大学の期末試験で、事前に告知されていた会場に行くと、黒板に「○号室に変更になりました」と書かれている。「うわ、急がないと」と走って、ようやく着いてみると、また「△号室に変更されました」と書いてある。それを何度も繰り返して、いつまでたっても試験を受けることが出来ない。私は大学受験で一度、試験日を間違えて別な大学に向い、あわてて引き返したが間に合わなかった苦い経験がある。それがトラウマになっているのかもしれない。

 私の大好きな漫画家、つげ義春(1937~)の本「苦節十年記/旅籠の思い出」(ちくま文庫)の中には、「夢日記」が収録されている。漫画は叙情性が強く、どこか半分、夢を見ているような幻想に彩られているが、この夢日記を読むと、作品のエッセンスが夢から湧き出ているのではないかとさえ、思えてくる。夢日記には妻以外にも、昔かかわった女性たちが登場し、さまざま性的な幻想が展開する。

 私の場合は、正直なところ、最近は異性の夢をほとんど見なくなった。小倉百人一首に「住の江の 岸による波 よるさえや 夢の通ひ路 人目よくらむ」(藤原敏行朝臣)という歌がある。なかなか会えない好きな女性が、夢の中でも人目を気にして現れないことを嘆いているのだという。素敵な女性がいない訳ではないが、私の心境もこの歌に近い。たまには女性の夢を見たいと思うのだが…。

 とりとめのない夢談義はこのへんでお開き。でも、いい機会だから、夢日記をつけてみようかと考えている。             (2024.5.4 風狂老人日記)