鳥が鳴き、花が咲く。春めいてきた(写真)。今宵も酒を飲む。この時期にぴったりの漢詩に、大好きな李白(762没)の「山中與幽人對酌」がある。

 両人對酌山花開/一盃一盃復一盃/我醉欲眠卿且去/明朝有意抱琴来(花の下で隠者と酒を酌む。一杯、一杯また一杯。私は酔って眠くなったから、君はしばらく帰ってくれないか。明朝もし、その気があるなら、琴を抱いて戻ってきてほしい)

 盛唐の詩人だから、花は桜ではないだろうが、こんな酒が飲めたら楽しいだろう。しかし、人はなぜ、酒を飲むのだろうか。

 李白とは対照的に、悲しい春を歌った中原中也(1907~37)の詩「また来ん春…」は胸に刺さる。

 また来ん春と人は云ふ/しかし私は辛いのだ/春が来たって何になろ/あの子が帰ってくるぢゃない/思えば今年の五月には/おまえを抱いて動物園/象を見せても猫(にゃあ)といひ/鳥を見せても猫(にゃあ)だった/最後に見せた鹿だけは/角によっぽど惹かれてか/何とも言わず眺めてた/ほんにおまえもあの時は/此の光のたゞ中に立って眺めてゐたっけが…

 中也29歳の時、長男の文也が他界した。そして1年後、中也も結核で世を去る。

 医者の息子だった中也は、弟が亡くなったのを機に、わずか8歳にして文学に目覚め、詩を作り始めた。そしてアルチュール・ランボー(1854~91)らのフランス象徴詩に憧れる。

 私の大学時代、ランボーらの詩について講義してくれたフランス文学の村上菊一郎教授(1910~82)を思い出した。こんなエピソードを話してくれたからだ。

 「若い頃、新橋の飲み屋に立ち寄ると、女将が『さっきまで大変だったんですよ。若い男が大暴れして。中原中也っていう詩人だそうです』っていうんです」。村上先生は中也より3歳年下だが、同時代に生きていた若者だったわけだ。中也はひどい酒乱だったらしい。

 そうでした。なぜ、人は酒を飲むか。

「『サヨナラ』だけが人生だ」で有名な「勧酒」を訳した井伏鱒二には、春ではないが、「逸題」という詩がある。

 今宵は仲秋明月/初恋を偲ぶ夜/われら万障くりあわせ/よしの屋で独り酒をのむ

 で始まる。

 私にも酒を飲みながら偲ぶ恋がないわけじゃないが、酒を飲みながら思い出すのは、やはり一緒に飲んだ仲間、友達が多い。Oさんもその一人だった。

 大学の先輩で、仕事でも先輩。3歳ぐらい年上だったように記憶している。仕事はできるし、人間も悪くないが、無類の酒好き。いや正直に書けば、アルコール依存症だった。

 いっしょに飲みに行くと、ずらりと並んだ料理にはいっさい箸をつけず、黙々と酒を飲む。会話もほとんどない。料理を片っ端から平らげる私とは対照的だった。Oさんの飲みっぷりはまさに「男の酒」で、格好いい。

 早期退職制度に応募して、上乗せされた退職金でマンションの部屋を買って、好きな相撲が見たいと、両国辺りで悠々自適の独り暮らしをしていた、と思っていた。

 退職後2年ぐらいして、私の職場に刑事を名乗る男性から電話があった。「郵便物が貯まっていたので、大家さんが鍵を開けたら、倒れておられて、救急車で運ばれたんですよ」。どうやら、事件性がないか調べているらしい。

 それから、仕事の内容やOさんの人となりを聞かれた後に「お酒は好きだったでしょうか」と質問された。「はい、好きでした」と私が答えると刑事が切ろうとしたので、私の方から尋ねた。「容体はどうですか」。「いま集中治療室に入っていますが、大丈夫そうですよ」という。安心して電話を切った。部屋の中には酒瓶がたくさんあったようだ。

 ところが3日後、その刑事から再び電話があった。「残念ながら、お亡くなりになりました」。死因は聞かずじまいだった。ちょっとOさん、早すぎやしませんか。いまごろは、天国の片隅のテーブルに座って、いつものようにグビリ、グビリとグラスを傾けているに違いない。

 半世紀も酒を飲んでいると、一緒に飲んだ人の顔がいくつも浮かんでくる。そして過去へのタイムマシンが、頭の中を飛び回る。

 寄る年波で、私も酒量が減った。柄にもなく最近は、週二回の休肝日を設けている。それから、ここ10数年続けているのは、昼酒を飲まないことと、嫌なことがあった日は飲まないことを厳守している。昼酒を飲むと明るいうちに眠くなって、夜中に眠られなくなり、生活のリズムが壊れるからだ。こうしたことをするのも、できるだけいい体調で、美味しい酒をのみたいから…。

 あ、そうそう、なぜ、人は酒を飲むかでしたね。結論は、「理由がわからない」から。何かのために酒をのむなら、つまらない。そのときどきで、どんな気分になるか分からない。それが楽しみなんですから。      (2024.3.13 風狂老人日記)