先日のブログに、「龍之介が生きた『暗い世相』」という題で、小説家・芥川龍之介(1892~1927)の生きた100年前の時代について書いたばかりだが、神奈川県立近代美術館葉山館で、奇(く)しくも昨日10日から、展覧会「芥川龍之介と美の世界 二人の先達ー夏目漱石、菅虎雄」(4月7日まで)が開幕した。さっそく覗いてきた。

 龍之介と美術の関係については、あまり考えたことがなかった。ところが、龍之介は「小学校へはひった頃からいつか画家志望に変わっていた」(1926『追憶』)と、幼いころ画家に憧れた時期があったことを明かしている。さらに大学の卒論ではウィリアム・モリスをテーマに選んだ。モリス(1834~96)といえば、19世紀末アールヌーボーの時代に、アーツ・アンド・クラフツ運動を主導し、美術を工芸や服飾と一体化させた人物だ。ただ、龍之介は、在学中すでに「羅生門」(1915)を発表して文学志望になっていたせいか、卒論では、詩人としてのモリスに限って論じている。

 もっと注目したいのは、1918年「文章倶楽部」に載せた小説作法だ。「眼に見るやうな文章ー如何なる文章を模範とすべき乎」の中で、「景色がvisualize(眼に見るように)されて来る文章が好きだ。さういうところのない文章は嫌ひである…」と、絵画的(映像的)な文章を表現の核にする考えを述べている。

 私は中学時代、龍之介の短編が好きになり、寝る前に1編を読むのが日課だった。その魅力は、物語のシーンが、ありありと絵画のように浮かび上がってくることだった。例えば、「蜘蛛(くも)の糸」(18)では、こうだ。

 主人公のカンダタ(牛へんに建、陀多)が、お釈迦様が垂らした蜘蛛の糸にすがって助かろうとする場面。下から自分と同じような罪人が、次々と糸につかまって、よじ上ってくる。そして…。

 「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだぞ。お前らは一体誰に尋(き)いて、のぼって来た。下(お)りろ、下りろ」と喚(わめ)きました。その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急にカンダタのぶら下がっている所から、ぷつりと音を立てて断れました。ですから、カンダタもたまりません。あっと云う間もなく風を切って、独楽(こま)のようにくるくるまわりながら、見る見るうちに暗の底へ、まっさかさまに落ちてしまいました。

 ほかにも、ちょっと思い起こしても、「杜子春(とししゅん)」(20)「蜜柑(みかん)」(19)「手巾(ハンケチ)」(16)など、鮮やかな場面がすぐに浮かんでくる作品が多い。

 龍之介は、外国の絵画にも関心が高く、イギリスやドイツで発刊された美術書を読んでいたほかに、雑誌「白樺」(1910~23)が紹介したセザンヌやゴッホなどの作品にも親しんでいたようだ。さらには、画家・小穴隆一とは親友と呼べる親密な付き合いをして、小穴が、自死した龍之介の「死に顔」を描いたこともよく知られている。

 龍之介の美術愛好趣味には、先輩がいた。遺作「或阿呆の一生」(27)に「先生」として登場する夏目漱石(1867~1916)と、菅虎雄(1864~1943)だった。

 漱石は、龍之介の「鼻」(1916)を絶賛した。そのことが、「羅生門」の評価の低さに自信を失いかけていた龍之介を救い、作家への本格デビューを後押しした。しかし、それを見届けるように、その年の暮れに漱石は世を去る。

 菅は一高などのドイツ語教授で、漱石とも熊本の五高でいっしょに教鞭をとった親友。能書家としても知られる。龍之介も一高でドイツ語を教えてもらった縁で親しくなり、第一短編集「羅生門」では題字を菅に書いてもらっている。

 展覧会には、3人が描(書)いた作品や書簡、直筆原稿などが展示されている。龍之介については河童の絵数点とともに、辞世の句をしるした自画像(1927)もあった。「水涕や鼻の先だけ暮れ残る 龍之介」。はなみずの垂れる鼻の先に、夕暮れ(夕焼け)がかすかに残っている、という意味だろうか。 (2024.2.11 風狂老人日記)