先日、神奈川県立近代美術館の講座「滝口修造 旅の眼差し」について書いた。昨日(21日)2度目(最後)の講座を受講したので、その感想を書きたい。
前にも書いた滝口の経歴を少しだけ繰り返す。
戦前シュールレアリスム(超現実主義)を日本に紹介し、シュールレアリスムの詩作にも打ち込んでいた滝口は、共産主義との関係を疑われて「治安維持法」で逮捕され、創作・執筆活動も断絶された。さらには東京空襲で、それまでの著書や原稿、資料もすべて焼失した。ところが、戦後10年以上たった1958(昭和33)年、ヨーロッパを旅し、シュールレアリスムの提唱者アンドレ・ブルトンに会い、その後の60年代からは新聞や雑誌での批評活動のほとんどをやめて、シュールレアリスムの画法デカルコマニーなどによる創作活動に「回帰」した。
私は旅の前と後で、なぜ滝口の活動が変わったか、その理由を知りたいと思っていた。旅の中で、心境が変わったとしか思えないからだ。いや、心の中に眠っていた何かが目覚めた、といったほうがいいかもしれない。
この変化について、滝口が理由を述べている明確な言葉は残されていない。しかし、書簡などの資料を読み込んだ講師の朝木学芸員は、理由について「戦前の途絶/戦後の乗り越えがあったのではないか」と提案した。つまり、国家弾圧と戦禍によって、創作活動が無残にも断ち切られた滝口は、旅をきっかけに、創作活動を取り戻そうとした、というのである。私もこれに同じ思いを抱いている。
ここからは、私の憶測と想像である。
滝口は慶応大学在学中の24歳、シュールレアリスムに出会い、シュールレアリスムに基づく詩作を手掛ける一方、27歳でブルトンの「超現実主義と絵画」を翻訳して出版、日本にほぼリアルタイムでシュールレアリスムを紹介した。31歳で前衛美術の「新造形美術協会」にシュールレアリスムの精神(理念)を伝えることで協力し、その協会の会員だった女性と結婚した。34歳の時は、銀座でシュールレアリスムの海外作品を集めた「海外超現実主義作品展」まで開催している。まさに、シュールレアリスムは、滝口が情熱を傾けた「青春」そのものだった。
ところがその4年後、共産主義と関係が深かったブルトンと交流していたことを特高警察に危険思想視され逮捕された。不起訴となったものの、活動はほぼ断絶したまま、終戦を迎えることとなった。 滝口にとって、発展するはずだった日本のシュールレアリスムは、どす黒い弾圧と戦禍に阻まれ、十分に育つことはなかった。滝口は挫折感を味わうだけでなく、その紹介者として、ブルトンら関係者に対して責任(負い目)も感じたことだろう。滝口は戦後、ブルトンに何度も状況を知らせる手紙を書こうと試みるが、実際に書き送ったのは、旅の前年の57年だった。その逡巡は、責任の重さの裏返しだったように思える。
まったくの想像だが、滝口は58年の旅でブルトンに会って、日本におけるシュールレアリスムの活動の断絶を詫びただろう。そして、その際に「あなたはいま、何か創作を続けているのですか」と聞かれたのではないだろうか? その問いが、胸に刺さったのではないか?
帰国した滝口がそれまでの評論活動をやめ、ブルトンがかつて提唱していたオートマティスム(自動記述)に基づく創作活動を再開するのは、ブルトンとの友情に応え、さらには「青春」の情熱を取り戻すことだったに違いない。創作者として、「失意」のまま終わることなく、作品を作る喜びを思い出そうとしたのだろう。 (2019.8.22 風狂老人日記)