先日、神奈川県立近代美術館葉山で開かれた美術講座「滝口修造 旅する眼差し」(講師・朝木由香学芸員)を受講した。

 美術好きの人でも、滝口修造(1903~79)という人物を知っている人は多くないだろう。滝口は、戦前から戦後にかけ、詩と美術評論を手掛け、自らも美術作品を創作した。とくに戦前は、フランスの詩人アンドレ・ブルトンらが唱えた芸術運動シュールレアリスム(超現実主義)をリアルタイムで日本に紹介。戦後は武満徹らと協力して、音楽・映像・美術など多分野を融合した創作グループ「実験工房」の中心人物となった。

 しかし滝口は1941(昭和16)年、共産党とのつながりがあったブルトンらの思想を問題視した特高警察に連行され、8カ月もの拘留で思想性を糾弾された。その後、起訴猶予処分となったものの、文筆活動はほぼ断絶。45年には東京の自宅が空襲で全焼して、著書や資料など知的財産すべてが灰燼に帰した。

 講座の研究対象は、58年(昭和33年)、滝口がブルトンやシュールレアリスムの画家ダリらに出会ったヨーロッパの旅である。同年に開かれたヴェネツィア・ビエンアーレの日本代表として派遣されたのが表向きの任務だったが、滝口はフランスやスペインに足を延ばし、ブルトンやダリ、コンセプチュアルアートの先駆者マルシェル・デュシャンに会った。

 1回目の講座では、滝口が自分で撮ったという写真(スライド)をもとに旅程を紹介した。2回目の講座(8月21日)では、ブルトンやダリとの出会いの意味、滝口の晩年の創作活動などについて講義が行われる。

 滝口が日本に紹介したシュールレアリスムは、一部の詩人や画家に浸透したものの、ヨーロッパほどの評価は得られなかった。私がもっとも知りたいのは、滝口にとって、この旅がどういう意味を持っていたのか、ということだ。終戦から10年以上が過ぎて、思想統制と空襲によって一つの「挫折」を味わった滝口が、どんな気持ちでブルトンやダリにまみえたのか、そして旅が滝口にどんな心境の変化をもたらしたのかが興味深い。旅のあと滝口は、新聞などに発表していた、それまでのジャーナリスティックな評論活動に疑問を持って、シュールレアリスムの技法「デカルコマニー」で作品を作り始める。

 デアルコマニーとは、紙にいくつかの絵の具を絞り出し、真ん中から折って広げるような技法を指す。作者の意図を超え、偶然によって作品が出来上がる「オートマティスム」(自動記述)という考えに基づく。オートマティスムは、精神医学者フロイトに大きな影響を受けたブルトンが提唱していた方法の一つだ。

 ヨーロッパでも日本でも、美術は歴史と深くかかわってきた。中でも、時の権力者に庇護されたり、弾圧されたりという関係はたびたび起こった。滝口の人生を振り返るときに思うのは、創作活動の自由についてだ。戦後ようやく民主主義が定着し、自由な創作活動ができるようになった。とはいっても、GHQが1952年に廃止されてからの「70年足らず」で、平均的な人一人の一生に満たない長さだということを忘れるわけにはいかない。それでも日本はまだ幸せなほうかもしれない。近隣を見ても、世界には創作や言論の自由が制限されている国が、まだまだ存在するのだから。                               (風狂老人日記 2019.8.15)