電車に乗っていたら、「二重術は目をつぶった時にこそ技術が分かります」という美容整形の広告がかけられていた。意味深な内容だが、これを見て思い出したことがある。これも電車の中の出来事だ。何年前か忘れた。確か、通勤電車内で人目をはばからずにする女性の化粧の是非が話題になっていたころではなかったか。

 吊革につかまって立つ私の前の座席に、30代前半ぐらいのきれいな女性が座っていた。ぱっちりとした二重瞼で、それが、美しさの大きな要素に思えた。眠いのか。やがて女性はまどろむように目をつぶった。すると閉じられた両瞼、それぞれのまつ毛から上3ミリぐらいのところに、細くて白い弓状の線がスーッと横に引かれている。「これはもしや、メスを入れた痕では?」 そう思った。

 これを冒頭の広告と結びつけ、整形の技術を論じるつもりは毛頭ない。が、ちょっとつまらないことを思いついた。「この女性はこの2本の線を見たことはあるんだろうか」ということだ。鏡を前にしても、「手術痕」を見ようと思えば目をつぶらなければならない。もちろん、写真にとれば確認はできるが。でも、「真実」を見ないほうが幸せなこともある。

  屁理屈を言うようだが、かように人間は、自分の姿を正確に把握することができない。鏡に映った姿は左右が逆だ。写真に写った姿も、レンズによる歪みやプリントによる色の違いがある。人に描いてもらった絵、地面に落ちた影、もれ聞こえてきた自分に対する噂話など情報の断片をつなぎ合わせ、何となく「自分の姿」をイメージしているだけにすぎない。だから、自分の中に育てている「虚像」と、ほかから与えられた「自分の姿」や「評価」にずれが生じることも多い。「このカメラマン下手だな」、「お安く見やがって」などと、それを人のせいにしてしまう。

 私も65歳になった。少しは自分のことが分かってきたかなと思うと、さにあらず。ますます分からなくなるばかり。このままこの世とおさらばする時がくるのだろう。まぁ、自分のことが分かってどうなるわけでもないのだが…。               (風狂老人日記 2019.7.26)