病院の時計が15時を告げる音楽を奏でた。
「こういう時計ってなんだか実家みたいで・・懐かしくて癒されますね・・・」
と常田の夫が言った。素朴で人柄が良さそうだなと洋子は思った。
そして
「うちはこんな立派な時計がある家庭じゃなかったけど・・笑、確かにこういった優しいメロディーを
聴くと、待ち時間も少しだけ癒されますね。よく見ると、お花や水彩画飾ってたり。病院も待っている人に配慮してくれてるのかもしれないですね」
と洋子が言うと、常田の夫も
「本当ですね。なんなら会社も最近ちょっとギスギスしてる雰囲気あるから、こういうの取り入れてほしいですね笑」
と言って少し笑った。
その様子を見て、洋子もホッとする。
旦那さんも落ち着いてきたみたい。「切迫流産」って最初お医者さんから聞いた時は、旦那さんも倒れてしまうんじゃないかと心配したけど・・・。常田さんも仕事休んで安静にしていれば大丈夫みたいだし・・良かった・・・。
「あ!すみません、佐藤さんにもこんなに長く付き添いしてもらっちゃって!お仕事、大丈夫ですか?あの、とりあえず僕も今から自宅に帰って車でまた病院戻ってきて、彼女を自宅に連れて帰ろうと思います。安静にしていれば大丈夫と思うので。本当に今日は助けてくださってありがとうございました!!」
たち上がって深くお辞儀をする常田の夫の姿を見て、洋子は生真面目でいい旦那さんだなと感じる。
「じゃあ私は今から直帰してそのまま自宅でテレワークしようと思います。何かあったらご連絡ください。」
洋子がそう言って病院を出た時、会社携帯が震えてチャットを2件受信した。
1件目は、岡野からは労いと直帰していいよというメッセージだったので、これはすぐその場で返信した。
2件目は、目黒からだった。
「病院付き添い、ご苦労さまです!営業部との人員についてのMTGしてきましたので議事録を簡単ではありますが、作成し、添付してます。営業部の人たち、めっちゃ自分勝手な主張言いまくりで正直むかつきましたw 詳しくは議事録をご参照ください!!それではまた来週ヨロシクお願いします。目黒」というメッセージだった。
「目黒くんって国語苦手やったんやろうなぁ」と洋子はちょっと笑った。なんか、普通の日常がありがたい。命の心配とかしたくない。疲れた。
お礼メッセージをとりあえず送り、議事録を開いた。すでに1行目から「社内移動でもいいから営業部に人を回してほしいとのこと」と誤字があった。そっと議事録を閉じた。
「移動と異動って間違えがち・・。悠斗の必殺ノートにも書いた・・・。今日の国語の復テ・・悠斗、知識分野の達人に生まれ変わってるかなぁ・・・さらに日曜は公開やのに土曜は野球・・対策やる時間がない・・・。今日浜から帰宅してから公開用にサイエンスちょっと復習しないと・・・」
ワーママだろうが、受験生の母の頭は浜学園でいっぱい!
帰りの電車内でも会社携帯からすぐに返信できるメールは処理し、会議のスケジュール調整をなげ、簡単なパワポのレビューをした。
マンションに帰宅してからは、宅配ボックスからミールキットの箱を取り出して、よろよろとエレベーターに乗り込む。リビングでPCを立ち上げている合間に風呂掃除もした。ミールキットを調理しながら、今日が視聴期限のセミナー動画を耳で聞いて把握した。
悠斗のお迎えに出かける時にルンバのボタンを足の指で押しつつ、会社携帯にかかってきた今日じゃなくてもいい大した用事でもない社内のおじさまからの問い合わせ対応をしつつ、駅に向かった。
何もかもが綱渡りだ。
浜学園に向かう電車の中で、改めて目黒が送ってくれた人事と営業部の会議の議事録を読む。
相変わらず誤字脱字のオンパレード、「*この時、高田さんは居眠りしていました」等の謎の注釈があったりする議事録だったが、わざわざ書いて送ってくれた目黒の性格の良さに洋子は感謝した。
議事録から内容を推察すると、営業部は人手不足だから中途で経験者を採用するか、社内異動でもいいから人員を補充してほしいと言っているのに対し、人事部は他の部署も人手不足なのは同じなので、会社として重要度の高い部署から補充していくと答えて、揉めたようだ。
「いやいや、人事部もダイレクトに言いすぎでしょ。営業部からしたらうちは重要な部署じゃないのかってなるし・・・。」
と突っ込みつつ、
そもそも・・営業部の離職率が異常に高すぎるのが問題・・・いくら補充しても辞めたり病んで休んだりしてしまう・・そこの原因はなんなのか・・・
と洋子は考える。
その時、洋子のスマホに栗尾からのLINEが届いた。
「日曜いよいよ公開ですね!悠斗くんに公開の算数の答案を画像で送ってもらったんですけど、問題を解くのに必要な公式や定理は頭に入っている方だと思いました。ただ、ケアレスミスで2問落としていました。算数は配点が大きいのでたった2問でも落としたら偏差値が結構変わってきます。質問で何が問われているかしっかり見極める注意力は意識してください。そして配られた計算用紙が白紙で問題用紙の隅で小さな文字で計算しているようでした。計算用紙はきっちり使って、計算でミスらないようにしたら変わると思います。」
具体的な問題の例も画像で送ってくれている。
そして締めに「みんな違って、俺が正解!」というコメント入りのスタンプ。
「金子みすずさんに怒られるで・・・こういう真面目だけで終わらないところ・・クリオネちゃんってやっぱ大阪人だなぁ。」
と洋子が思っているとまたLINEが来た。
「すでに暗記済みかもしれないですが・・・円周率の九九、平方数、分数と少数変換、素数✖️素数の積はいちいち計算しなくていいように完璧にしてくださいね(筋肉の絵文字)」
「そんなん・・・私も覚えてないよ。すごいな、浜学園戦士は。小学生じゃないみたい」
浜学園の最寄駅について、トボトボと洋子は歩く。別の塾のバッグを背負った子供の集団ともすれ違う。
今の子達・・6年生じゃないみたいなのに、こんなに夜まで勉強やってるんだな・・・。
悠斗、もう6年だし、早くVクラスに上がって、対策しないと・・時間がないよ。
浜学園の前で、黄色い看板に照らされながら、洋子は考え続ける。
もっと早くから、もっとたくさん勉強しておけばよかった。そしたらもっと早くにクラス上がれてたかもしれない。
ガヤガヤと子供達がドアから出てきた。
「あ、母さん」
明るい悠斗の声がした。ちらっと見ると、悠斗が人差し指で「1」の形を作っている。
よかった。復テ1位だったのか。クリオネちゃん、ありがとう・・・。
駅に向かう途中で洋子はつい言ってしまった。
「国語も酷語じゃなくなってきたね。1位だし。勉強したらしただけ成績が上がるね。もういっそ雨降って、明日の野球無くなればいいいのに。そしたら公開の勉強もできるのに。野球と受験勉強の両立なんて難易度が高すぎるよ・・・」
悠斗はハッとした表情で洋子の顔を見つめた。
洋子はそれに気づかず、その後は何も言わずに帰った。
親の何気ない一言が子供に大きな影響を与えてしまう。
特に受験生の親はこの点に気をつけなければならない。
洋子が過去にさんざん受験本で読んだこの教訓。
実生活では全く活かせていなかった。
続く