12時10分前になった。
エレベーターが混む前に、早めランチへ出かける社員たちの移動する音が廊下から聞こえる。
カルティエの腕時計を見て、常田はいそいそとPCを閉じ、クオバディスの手帳やスワロフスキーのペンを片付け始めた。
「じゃあ、私、だいたい理解できたので、ちょっと早めに失礼します。私、U30の新規事業提案プロジェクトのリーダーやっててぇ、13時からチームのMTGでプレゼンするんです。
通常業務もパンパンなのに、プラスアルファのプロジェクトなんで、昨日とかもう家帰ってから22時までパワポ作りしてましたよぉ。あ、これ、人事部の皆さんには内緒にしてくださいね⭐︎
今日はありがとうございました。また何かあったら質問のチャットしますんで。あと幼児教育の件もこれから情報交換させてくださいね!じゃ、時間ないんで失礼します!」
一方的に話して、会議室から出る常田に、洋子は座ったまま弱々しく会釈した。
「マミートラック」
常田からそう言われてから、頭がなんだかぼうっとして、その後は適当に相槌を打ちながらの説明となってしまった。
そんな洋子の変化に気づかず、常田は
・同期の男性と社内結婚であるが、男性育休はどのくらい取れるのか?出産祝い金はそれぞれ出るのかどうか
・まだ安定期じゃないけど早めにレクを受けたのは、準備や調査を色々しておきたいと考えているからである
・この間、栗尾と一緒にランチしているのを見た。自分も同じ店にいたが、チラッと「中学受験」という単語が聞こえた。自分も生まれた子は受験させたいと考えている。七田やハマキッズ、公文などに通っていたのか?
・小学校受験についてはどう思うか?大学附属だと中学受験よりおいしいのか?
などなど一方的に質問してきたが、洋子がノウハウがないことに気づいて、ややテンションが下がった様子だった。
「マミートラック」
洋子は、常田が去ったあとも、そのまま会議室で一人静かに座って考える。
昼休みに入ったようで、廊下からガヤガヤと話し声が聞こえる。
じっと座ってると、なんだか喉の奥が熱く痛いのに気付いた。
これ、前にもあったなぁ・・どんな時だっけ。。
そうだ!営業の時だ。
洋子は記憶を辿る。
栗尾の善意に頼りきりの仕事できない「営業部の失敗作」の営業の五反田くん
五反田くんと比較して「元祖失敗作」として営業部の伝説となっている大崎という洋子の同期の男性がいた
大崎は実家の家業を継ぐとかで急に会社を辞めると言い出し、上司はキレまくり、当時、「営業部のホープ」と呼ばれていた洋子に後始末を丸投げした。
大崎くんと得意先に担当がえの挨拶に一緒に行った時・・・そうそう…
洋子は思い出した。
古さ満開の社屋と、ガラスの灰皿がある応接室に動揺しながらも、大崎と二人で得意先の部長を待っていた。
制服を着た若い事務員の女性がお茶を出してくれた。
当時の洋子と同じくらいの年齢の女性だと思うが、
何十年も変わっていないと見られるデザインの制服が、20代の彼女の良さを殺していた。
得意先の部長は、洋子が名刺を差し出している姿をチラッと見たあと、大崎に
「ちょっとぉ、大崎くんさぁ、会社辞めるの?で、次の営業はこの女の子なの?オタク、うちの会社を軽く見てるんじゃないのぉ」
と笑いながら、話しかけた。
頭を下げながら名刺を差し出し続け、ぐっと泣くのを我慢していた・・あの時・・と同じ。
ということは・・・
私は今、泣くのを我慢しているのか?
そうか・・・ショックを受けてるのかな・・・
なんか忙しすぎてよくわかんない。
「はぁ、疲れた。でも午後からMTGだから、何か食べとくか・・もうBASEでいいや」
洋子は独り言を言って、オフィスの荷物を持ち歩くのに使っているKOKUYOのフリーアドレス用バッグからストックしている完全栄養食のパンを出す。飲み物は水しか持ってないけど、もうこれでいい。
その時、ドアをノックする音が聞こえた。
「昼休みにごめんね。あの・・朝に言ってた件で。今いいかな?」
人事部長の岡野だった。
洋子は慌てて、
「あ、さっき、マーケの常田さんの産休レクが終わって、特に問題なしでした。13時半から目黒くんと営業部との要人関係のMTGでして、本当はよくないんですが、こちらの会議室でお昼サクッと食べさせていただきます・・笑」
と言った。
「それはいいけど・・。朝に言ってたさ、京都の桜、の件」
ドアにもたれ、立ったまま岡野はじいっと洋子を見て言った。
「京都の桜、日曜日に一緒に見に行けたりするかな?」
え!?日曜に、桜を?二人で?え?そんなわけないか、結婚してるし!てか岡野さんも結婚してるよね!?
洋子は喉の痛みも忘れて、
「人事部のみんなにも〈調整さん〉を送る感じですかね!?私からみんなに送りましょうか?
あ!!日曜、浜の公開の日だ!あの、あの、息子が浜学園っていう関西では有名な中学受験塾に行ってまして、東京でいう、SAPIX的な。それで、今週日曜は月に一回の重要な模試があって、息子は6年生で、クラスアップがかかってて・・・」
動揺しながら洋子が答えると、岡野は
「そっか・・・残念だなぁ。急にごめんね。あ、人事部のみんなには、特に連絡なしでいいよ。また、佐藤さんのスケジュール空いている時に、是非。」
とスマートに小さく笑って言った。
そして岡野が会議室の外へ出ようとドアを開けようとしたと同時に、今度は常田が真っ青な顔で入ってきた。
「と、常田さん!?」
流石の岡野も少し動揺して常田の方を見た。
今の聞かれてた!?というか、なんだか様子がおかしい・・・
「常田さん、なんか、顔色悪いみたい。しんどい?椅子に座ります?」
洋子は立って自分の座ってた椅子を常田の方へ向けた。
不安げに常田がいう。
「あの・・佐藤さん・・さっきトイレに行ったら・・なんかピンクだったんです・・・」
それを聞いて洋子は目を見開く。
「え!?ピンク!?トイレでって言ったよね!?常田さん、まだ安定期じゃなかったよね!?それは・・それは・・・!今から一緒に病院行こう!このビルの裏にクリニックあるから!歩いて行ける距離だから!岡野さん、私付き添ってきます!!」
ただならぬ洋子の様子に岡野も頷き、常田さんの上司には自分から連絡しておくから、ここの会議室も片付けとくしあと任せて!と一気に言った。
流石、岡野さん、仕事できる!さっき人格面では株下がったけど…と洋子は思いつつ、KOKUYOのフリーアドレス用バッグと常田の手を掴んで、エレベーターの方へ急いだ。
高層ビルの昼休みはエレベーターがすでに上の階で、満杯で洋子の階をスルーしてしまう。
洋子は真っ青な顔の常田の手をしっかり握ってエレベーター前まで廊下を誘導する。
やっときたエレベーターに人事部の目黒が乗ろうとしていたのを3歩前から洋子がストップをかける。
「目黒くん!!ごめんエレベーター、譲って!今から病院行くの!」
必死の洋子の様子に、目黒とそのランチ仲間が十戒の映画のようにざっと道を開けた。
「ありがとう!あと13時半からのMTG、私、出れないと思うの!ごめん!」
常田とエレベーターに乗り込みながら、洋子が目黒に言うと、「わかりました!任せてください!」と目黒が言ってメモを書くジェスチャーをしたところでドアが閉まった。議事録をメールで送りますってことだと洋子は解釈した。
クリニックで常田が診断してもらっている間、洋子は待合室で長椅子に腰掛けて待っていた。
同じマーケ部所属の常田の夫が、岡野から連絡をもらったと言って走って駆けつけた。
そうだ、社内結婚だと言っていた、と洋子は思い出した。
2週間ほど自宅安静が必要のようだと洋子は医師の言葉を伝えた。
常田の夫は洋子の隣に座りながら
「もう・・最近遅くまで仕事してて・・切迫流産とか怖いです・・ハードな仕事との両立なんて無理じゃないですか・・」
泣きそうになりながら言った。
常田の夫の言葉に、確かに仕事と家庭、育児の両立は、難易度が高すぎる・・・と洋子は思った。
クリニックの椅子がとても固く冷たく感じた。
続く