朝9時になるとオフィスには出社してくる社員が増えてきた。
洋子は残業があまりできないので、いつも8時には出社している。メール処理など雑務を先に片付け、出社している時間は打ち合わせなど、相手が必要な業務を入れるように心がけている。
「おはようございます。今日お隣ですね」
人事部長の岡野だった。
「おはようございます」
洋子のオフィスはフリーアドレス制なので、毎日席が変わる。
コロナ禍で在宅勤務のシステムも整い、毎日出社がマストではなくなった。
さらに出社しても、フリーアドレスなので同じ部署の目を気にせずに定時退社しやすくなった。ワーママとしては悠斗が保育園時代に比べてとても働きやすくはなったと思う。
田中先輩の頃なんて、在宅勤務制度もないし、営業だから男の人ばっかりで定時退社もできなかっただろうし、どうやって息子さんの保育園やSAPIXのお迎えとかしていたんだろう・・・
と洋子は思う。
「だんだん暖かくなってきましたよね。今年は桜も早いのかな」
岡野が洋子に話しかける。
こうして部下との雑談をするのが外資系的なコミュニケーション方法なのだろうか
と洋子は思う。
岡野は1年前に有名外資系企業から転職してきた上司である。
一年前の春、JTCにどっぷり浸かってきたおじさま方は外資系からいきなり部長が来るということでかなり警戒していた。
成果を上げないと叱責されるらしい
数字で評価されて降格もされるらしい
社長が気に入ってヘッドハンティングしたから、嫌われたら社長にも告げ口される
などなどさまざまな噂が流れていた。
洋子も悠斗を浜学園に通わせつつ、人事の業務を覚えて必死に生きている毎日だったので
おじさま方の噂を聞いて、厳しくなるなら人事にわざわざ希望出さず営業のままでいれば良かったかなと憂鬱な気持ちになっていた。
ところが、岡野は非常に物腰が柔らかくスマートで、転職初日から全員との面談を始めて
一人一人の気持ちや希望、適性などをヒアリングしてくれた。
誰に対しても敬語を使い、礼儀正しく、フェアな態度、そして仕事の引き出しが多く
社長に対しても人事としての企画案が通りやすくなり、洋子はすっかり岡野贔屓になってしまった。
こんな人、この会社のプロパーのおじさんにはいなかった。仕事ができる人っていうのはこういう人を言うんだなと感じている。
「そうですね、天気予報では今週末にでも開花じゃないかって言ってました。」
洋子が答えると、岡野は続ける。
「大阪だと京都にお花見に行けたりもする距離感だよね。誰かと行ってみようかなぁ」
そうか、家族は東京のままで、単身赴任で大阪にいると聞いたことがある。東京からわざわざ大阪勤務を選ぶってよっぽど年俸が良いのだろうと洋子は思った。
「あと、今日、産休についてのレクが2件入ってますよね。10時からは総務の安田さん、11時からは、マーケの常田さん。」
「はいそうです」
「常田さんは、マーケティング部での評価も高いみたいですね。キャリアが途絶えないという安心感を持って産休に入ってもらえたらと思います」
「わかりました。不安がないよう色々な制度や産休中の資格取得フォローなどの話もしてみます」
「ありがとうございます。じゃあ、僕、9時半からMTGあるので」
さらっとPCを持って岡野が立ち去ると、そこに課長の高田がやってきた。
高田は岡野とは真反対。バブル入社のプロパー、ずっと人事畑でやってきている。
「岡野さんは相変わらずそつがないねぇ。常田さんねぇ、性格きついから、僕的には栗尾さん派だけどね」
「なんですか、それ」
洋子は尋ねる。
「あの二人、同期なの。マーケ部の常田と営業部の栗尾。優秀な女子が豊作の年だけど、あの二人がツートップって言われてる。一応会社的にはマーケが花形、一番優秀な新人たちが配属される部署ってことになってるけど、栗尾さんは全然マーケに行けたのに自分から営業を希望したらしいよ。偉いよねぇ。あんな下積み部署に自分から行くなんて。
それに比べて、常田は、マーケに行っても評価される仕事しかしたくないって新人の時からごねる。でも会社としても辞められたら困るから、言うこと聞いてしまうんだよね。本当、離職率下げないといけないからさ。まぁ常田も気に入った仕事は本当に熱心にやるし、能力はあるとは思うよ」
不満そうに高田が言う。
「そうなんですか。私、常田さんは直接面識なくて。社内のイントラでの書き込みなどの頻度が多いので、よく名前やプロフィール画像は見たことありますけど」
「そう、そうやってアピールすんの。まぁ会社員の戦略としては正しいんだろうけど。点数稼ぎが上手いっていうか。」
点が取れる勉強法、という栗尾の言葉を洋子は思い出す。
「それに比べてさ、栗尾さんは偉いんだよ。ああ見えてすごい人情派。総務の僕の同期の吉田が担当でやってるボランティアの地域ゴミ拾いとかにも来てくれたりさー、社員が集まらなくて困ってるんだけど、営業からただ1人やって来てくれたワケ。
あと、部でも困っている人の業務も手伝ったりしてる。ほら、失敗作と言われてる入社5年目の五反田くんとかのミスもフォローしたり、業務の進捗確認してあげたり。もはやマネージャーなんだよね。あと営業のエクセルも使えない平成元年組のおじさんたちいるじゃない?そのおじさんたちにエクセルやパワポの使い方を懇切丁寧に教えてあげたり。自分の方がもう仕事量多いってのにさ。でも全然栗尾さんの評価にはつながらないから損してるんだよね。人がいい。だから見た目も可愛いんだけどさ、そういう内面的なところもバブル入社組の僕らおじさんとしては、栗尾推しなワケ」
「そうなんですね」
確かに・・クリオネちゃん、優しい。あった事もない悠斗にだって前向きの声がけをしてくれて、夜遅くに国語のコツを教えてくれて親身になってくれた・・・
「けど、彼女みたいなタイプは損しちゃうんだよ、こんな古い会社だと。特に営業は女性は評価されにくい。男尊女卑な取引先もある。だから、いくら彼女が優秀で性格が良くても・・あ、だからこそか、うちの会社なんか何年後かには失望して辞めちゃうんだろうなぁ」
高田さん・・・JTCにおんぶに抱っこの甘えたおじさんと思ってたけど、クリオネちゃんのことよく見てる、やっぱりこの人は人事のプロなんだなと洋子は見直しかけたその時、
「で、さ、栗尾ファンクラブの平成元年おじさんズと栗尾・佐藤飲み会とか開催してくんない?」
にかっと笑って高田が言った。
ああ・・やっぱこの人アカンわ・・と洋子は苦笑いした。
11時。洋子が予約している面談用の会議室に常田が入ってきた。
背が低いのをカバーするためか、妊婦だというのにヒールを履いている。
お腹もそろそろ苦しいだろうに、パンツスーツだ。
でも、これが彼女らしいのかもしれない。
「ああ、佐藤さん、産休制度のレクにお時間いただきありがとうございます。
私、佐藤さんとお話ししたいなって常々思ってたので、今日はワーママの先輩としてお話し伺えるのを楽しみにしてきました!よろしくお願いします!!」
キリっとしたアイラインを引いた顔で常田が挨拶する。洋子も会釈しながらパソコンに映っている常田のプロフィールをチェックする。
常田玲花。公立トップの高校→一浪してTくば大学卒、東京都世田谷区出身、大阪市北区在住・・・
「あと、産休中に、子育て大変だとは思うけれど、一応人事部としては資格取得の優遇制度というのがあって・・・」
洋子が説明していると、常田がじっと洋子を見つめる。
「あ、ごめんなさい、駆け足で説明してしまいました。ここまでで何か質問とかありますか?」
洋子が尋ねる。
「あの、佐藤さんは、営業にいらっしゃった時に、得意先かなりの数持たれていて、休日でも働いていて、すごい数字上げていらしたと聞きました」
じいっと洋子を見つめながら常田が言う。
「あ・・でも、あの、そんな働き方は今時・・・」
洋子が話そうとした言葉に被せて、常田が続ける。
「なんで、そんな優秀だった佐藤さんが、今、人事部なんですか!?
こんなマミートラック、嫌じゃないんですか!?
子供がいるからですか?やっぱりこの会社は出産したら、ワーママをマミートラックへ押し込む会社なんでしょうか!?」
思いがけない言葉に、何も返せない洋子であった。
続く