2010年11月23日の午後は動くと汗ばむくらいの陽気だったような気がする。
夕方5時ごろ東京に居る娘から珍しく電話が掛かってきた。
仕事中だったが彼女の身に何か起こったかと通話ボタンを押した。
「北朝鮮から爆撃されたみたいだけど大丈夫?」
「えっ!何時ごろ?この辺はいつも通りだけど・・・」
多くの人達が平日の仕事中だったので同様の反応だったと思う。
帰宅してTVをつけてみると当然のことながら
事件前までは広州アジア大会でお祭り気分だったのに
ニュースは全て砲撃関係の特別番組になっていた。
翌朝の出勤時間は雷雨になり
稲光にすら北朝鮮からの攻撃かと怯えてしまうくらいだった。
一夜あけた翌日の日本語学校の授業では
この事件に触れないわけにはいかなかったが
生徒達の反応を総合してみると
今回の砲撃も時折起こる小競り合いの1つ
くらいにしか考えていないようだった。
国連法では1950年の韓国戦争を経て北朝鮮とは休戦状態。
この戦争後連合軍側が決めた海上の国境線(NNL)を
北朝鮮は未だに認めておらず
今回も韓国側が領海と認識している海域での軍事訓練中だったが
北朝鮮側からは領海を侵犯されたという理由で砲撃してきたのだった。
しかしながら今回は民間人2人を含む4名が亡くなっており
時間が経つにつれ分かってきた被害の大きさに
このままでは済まないかも知れないという緊張感が
ソウル市内でも感じられ始めたと思ったのは勘違いだった。
現実的にミサイル攻撃が一旦開始されれば
数分で壊滅状態になると言われているソウルには
元々一般市民の逃げ場は無いと思われ
結論は「『その時』が来るまで通常の生活をする」に落ち着いた。
続く一週間は毎日のように砲撃事件関連のニュースばかりで
どのチャンネルも同じ様な映像と内容ばかりなので
TV自体を見たくないという生徒まで出る始末だった。
今回砲撃された延坪(ヨンピョン)島は北朝鮮との国境近くにある為
陸海空よりレベルの高い海兵隊軍事施設があるという。
加えて同島には韓国内に12門しかないK9 155mm自走榴弾砲のうち
6門があると言われていたのだが
残念なことに即時正常に稼動したのは3門だけだった等
応戦に手間取ったらしい。
意外だったのは延坪島に暮らす一般市民は1660名にも上り
23日夜、砲撃は一旦沈静化したと判断し
島民達は徐々に船で仁川広域市に避難を開始した。
怖くて島には2度と帰りたくないと親類縁者を頼る人々もいたが
多くは戻れることを前提に政府の援助を期待し
仮住まいとして篤志家が仁川市で提供してくれた
チムチルバンに寝泊りし始めた。
ところが、砲撃後一週間以上たっても
政府から避難島民への援助は無く
マスメディアを中心に
これが経済大国を自負する国の政府が
自国民にすることかと世論が騒がしくなった。
延坪島では何軒かの民家も被弾していたので
政府は急遽彼らの為に仮設住宅の建設などを始めた。
その後民間各方面からの寄付と前後するように
政府も延坪島住民に「危険地域手当て」を出すこととなった。
砲撃後10日くらい経った頃だっただろうか
被害状況を専門家達が一通り点検し安全だと確認した後
与党議員と政府の軍事専門家が現地を視察した。
「うむ、これが爆弾の破片ですか。」
「そうですね、これは72ミリ砲ですね。」
「議員様、ちょっとお待ちください。
それはアルミ製の保温ボトルのようです。」
「・・・。」
平素から国会議員やその子弟達の兵役義務忌避問題や
職業軍人達への実戦闘能力に疑問の声があったせいか
このエピソードは新聞にも掲載された上
ネッティズム達の格好の餌食となり
「我が家には爆弾が2個ある」
「いや、うちには3個だ」
などという書き込みもあったと聞いた。
一般韓国民の日常生活は
この程度には落ち着きを見せている。
夕方5時ごろ東京に居る娘から珍しく電話が掛かってきた。
仕事中だったが彼女の身に何か起こったかと通話ボタンを押した。
「北朝鮮から爆撃されたみたいだけど大丈夫?」
「えっ!何時ごろ?この辺はいつも通りだけど・・・」
多くの人達が平日の仕事中だったので同様の反応だったと思う。
帰宅してTVをつけてみると当然のことながら
事件前までは広州アジア大会でお祭り気分だったのに
ニュースは全て砲撃関係の特別番組になっていた。
翌朝の出勤時間は雷雨になり
稲光にすら北朝鮮からの攻撃かと怯えてしまうくらいだった。
一夜あけた翌日の日本語学校の授業では
この事件に触れないわけにはいかなかったが
生徒達の反応を総合してみると
今回の砲撃も時折起こる小競り合いの1つ
くらいにしか考えていないようだった。
国連法では1950年の韓国戦争を経て北朝鮮とは休戦状態。
この戦争後連合軍側が決めた海上の国境線(NNL)を
北朝鮮は未だに認めておらず
今回も韓国側が領海と認識している海域での軍事訓練中だったが
北朝鮮側からは領海を侵犯されたという理由で砲撃してきたのだった。
しかしながら今回は民間人2人を含む4名が亡くなっており
時間が経つにつれ分かってきた被害の大きさに
このままでは済まないかも知れないという緊張感が
ソウル市内でも感じられ始めたと思ったのは勘違いだった。
現実的にミサイル攻撃が一旦開始されれば
数分で壊滅状態になると言われているソウルには
元々一般市民の逃げ場は無いと思われ
結論は「『その時』が来るまで通常の生活をする」に落ち着いた。
続く一週間は毎日のように砲撃事件関連のニュースばかりで
どのチャンネルも同じ様な映像と内容ばかりなので
TV自体を見たくないという生徒まで出る始末だった。
今回砲撃された延坪(ヨンピョン)島は北朝鮮との国境近くにある為
陸海空よりレベルの高い海兵隊軍事施設があるという。
加えて同島には韓国内に12門しかないK9 155mm自走榴弾砲のうち
6門があると言われていたのだが
残念なことに即時正常に稼動したのは3門だけだった等
応戦に手間取ったらしい。
意外だったのは延坪島に暮らす一般市民は1660名にも上り
23日夜、砲撃は一旦沈静化したと判断し
島民達は徐々に船で仁川広域市に避難を開始した。
怖くて島には2度と帰りたくないと親類縁者を頼る人々もいたが
多くは戻れることを前提に政府の援助を期待し
仮住まいとして篤志家が仁川市で提供してくれた
チムチルバンに寝泊りし始めた。
ところが、砲撃後一週間以上たっても
政府から避難島民への援助は無く
マスメディアを中心に
これが経済大国を自負する国の政府が
自国民にすることかと世論が騒がしくなった。
延坪島では何軒かの民家も被弾していたので
政府は急遽彼らの為に仮設住宅の建設などを始めた。
その後民間各方面からの寄付と前後するように
政府も延坪島住民に「危険地域手当て」を出すこととなった。
砲撃後10日くらい経った頃だっただろうか
被害状況を専門家達が一通り点検し安全だと確認した後
与党議員と政府の軍事専門家が現地を視察した。
「うむ、これが爆弾の破片ですか。」
「そうですね、これは72ミリ砲ですね。」
「議員様、ちょっとお待ちください。
それはアルミ製の保温ボトルのようです。」
「・・・。」
平素から国会議員やその子弟達の兵役義務忌避問題や
職業軍人達への実戦闘能力に疑問の声があったせいか
このエピソードは新聞にも掲載された上
ネッティズム達の格好の餌食となり
「我が家には爆弾が2個ある」
「いや、うちには3個だ」
などという書き込みもあったと聞いた。
一般韓国民の日常生活は
この程度には落ち着きを見せている。