9.「鬼」
本当のことを話すのはいつも勇気のいることだ。
だが、人はいつか必ず真実を知る時が来る。
だから、話さなければならない。
誰も知らないはずの、この話を。
明日話すのだと、二人は決めていた。
太郎が十五歳の誕生日を迎える明日。
太郎が、大人の仲間入りをする明日。
「ねえあんた、やっぱり話さきゃダメなのかい?太郎がずっとこの村で生きていくのなら、わざわざ話さなくても…。」
15年前よりも顔のシワの増えた妻が言う。
「いつかは、きっと本当のことを知らねければならない。それに太郎は、真実を受け止められる強い男だ。」
妻と同じように15年前からシワの増えた夫は答えた。
シワは増えたが、今でも現役で裏山の手入れをしている夫の身体は変わらずにたくましい。
そんな夫の仕事の手伝いをしていることもあり、確かに太郎は強い男に育った。
村に住んでいる男たちどころか、都まで行っても相撲で太郎に敵う者は誰もいない。
「それに、太郎は身体だけではなく心も強い男だ。ワシとお前が育てたんだからな。」
だから、二人は明日太郎に真実を告げるのだ。
お前は二人の本当の孫ではない、と。
太郎の両親は太郎が生まれてからすぐに流行り病で亡くなった。
…ということになっているが、それは夫婦が太郎に付いた嘘だ。
夫婦と太郎の間に、血の繋がりはない。
15年前に、妻が川で拾ってきた赤子が太郎だった。
「それだけならあたしだって躊躇ったりしないさ。あの子が強い子だってことはよーく知ってる。だけど太郎は…。」
太郎は、他の子とは違うのだ。
最初に気付いたのは、太郎が5歳になる頃だった。
他の子どもよりも成長が早く、大きく健康に育ったことに二人は安心していた。
そんな太郎がある日高熱に冒された。
大量の汗とともに、額に謎の突起物が現れた。
熱が下がり元気を取り戻しても、突起物は消えなかった。
突起物が少しずつ大きくなり、二人は突起物の正体に気付いた。
それは、噂に聞く鬼の角のようだった。
その頃都では、鬼の噂が流れ始めていた。
鬼は獣を操り人を襲う。
鬼は混乱に乗じて人をさらい、宝を奪う。
実際に鬼の姿を見たものは数少ないのであくまで噂の域を出ないが、獣による被害や謎の行方不明者の存在は確かにあった。
「それ以上言うな。それのどこが悪い。例え鬼の子だったとしても、太郎はワシらの孫だ。だからこそ、太郎に真実を話そう。」
「まだ鬼の子だなんて決まったわけじゃ…。」
しかし、夫にはもう一つの心当たりがあった。
太郎は、獣と会話ができる。
小さなころから山の獣や鳥たちと遊んでいた太郎は、どうやら獣たちと意思の疎通ができているようなのだ。
長年山で仕事をしている夫でももちろん獣の行動は予測できるが、太郎と獣たちのそれは予測なんて言葉では片付けられなかった。
一方通行の予測ではなく、正確に会話をして獣と意志の疎通ができる。
自然を相手に生きてきた夫が見ても、それはまさに人ならざる能力だった。
「じいさま、ばあさま、大変だ!!」
夫婦の会話を遮る大声を出して、太郎が家に飛び帰ってきた。
「どうした、太郎?騒がしいぞ。」
太郎は息を切らしながら答えた。
「鬼だ!今までまともに姿を見せなかった鬼たちが、ついに白昼堂々と都に攻めてきた!奴ら姫をさらって海の向こうへ逃げたらしい。」
夫と妻は黙って顔を見合わせた。
「助けに行かなきゃ!都には僕より強い男はいないんだ。僕が行かなきゃ!」
太郎は夫の肩を掴んで続けた。
「太郎、少しは落ち着け。」
夫は太郎を制した。
「落ち着いていられないよ。誰かを助けられなくて何のための強さだ。じいさまはそう教えてくれたじゃないか。」
「落ち着けと言っている!」
夫の声に、さすがの太郎も口を閉じた。
「お前も明日から大人だ。お前が決めたのならそうすればいい。」
「ちょっとあんた!」
夫の言葉に妻が叫んだ。夫は妻と目を合わせて頷くと、静かに続けた。
「だが長旅になるのなら、いろいろと支度が必要だろう。出発は、明朝にしなさい。」
太郎は心を落ち着かせてまっすぐ夫を見ると、ゆっくりと頷いた。
「それと、出発する前に大事な話がある。」
人生を変えるような特別な一日でも、いつものように朝は来る。
夫婦にとって、そして太郎にとって今日は運命の日だった。
夫婦と太郎は、居間で正座をして向かい合っている。
「大事な話とは何ですか?」
「お前が旅に出ずとも、今日話すつもりだった。」
太郎の問いかけに夫が答える。その時妻の瞳は潤んでいた。夫は静かに口を開く。
「太郎。お前はワシらの本当の孫ではない。」
「15年前に、あたしが川で拾ってきたんだよ。」
夫婦と太郎の間に、沈黙が流れた。
しかしその沈黙は、太郎によって一瞬で崩された。
「なんだ、大事な話ってそんなこと?」
思わず笑い出した太郎の顔を見て、夫と妻は呆気にとられた。
「そんなこと、とっくの昔から知ってたさ。」
動揺を隠しきれない夫と妻を面白がるように、太郎は続けた。
「小さな頃から村のみんなが教えてくれたよ。なんだ、秘密にしてたつもりなのかい?じいさまも案外ツメが甘いな。」
田舎の噂は都会以上に早く広まる。太郎の育った村は隠し事ができない者たちばかりだった。
「あいつら…。勝手なことを…!」
怒りに顔の歪んだ顔の夫を見て、太郎が慌てて口を開いた。
「待って、じいさまもばあさまも怒らないで。村のみんなは悪くないんだ。」
息を荒げる夫を、妻が心配そうに見つめる。
「村のみんなは「だからお前は俺たちみんなの子だ」って言っていつも遊んでくれた。だから僕は村のみんなには感謝してるんだ。僕がどこで生まれていようが、誰の子どもであろうが、僕を育ててくれたのはじいさまとばあさまとこの村のみんなだ。この村のみんなが、僕の家族だ。」
妻は太郎の言葉に耐えきれずに涙を流し始めた。
「…だから、絶対この村に帰ってくるよ。何があっても、必ず生きてこの村に帰ってくる。」
二人が思っていた以上に、太郎は強く育っていた。
二人が思っていた以上に、太郎はまっすぐ育っていた。
「お前ももう、立派な大人だな。」
年を取り少し涙もろくなった夫は、瞳に涙を浮かべて言った。
「これはお前が大人になった祝いだ。餞別に持っていけ。」
夫は居間の壁に掛けられた刀を外して、太郎に差し出した。
「丸腰じゃ危険も多かろう。我が家に伝わる刀、桃一文字だ。」
太郎は夫から差し出された刀を両手で受け取った。
「あたしからの餞別は、これだよ。」
妻は包んである風呂敷を太郎に手渡した。
「お前の好物のきび団子さ。お前は大食らいだから、たくさん作っておいたよ。」
太郎の目にも、いつの間にか涙が浮かんでいる。
「それと、ちょっと目をつぶってごらん。」
妻に言われた通り目を閉じた太郎の後ろに回って、妻が鉢巻を取り出した。
額の小さな角を隠すかのように、太郎の額に何重にも鉢巻が巻かれていく。
「さあ、できた。これで大丈夫だ。」
透き通るような青空の下を、太郎は旅立つ。
たった一度「行ってきます」と挨拶をした後は一度も振り返らずに、まっすぐと前へ向かって歩いていく。
腰にたっぷりのきび団子と、桃の名を冠する刀を携えて。
そんな太郎の後ろ姿を、二人の老夫婦はいつまでも見守っていた。
「結局、一番大事な事は言えませんでしたね。」
「…そうだな。だが心配はいらん。太郎はいつどこで真実を知っても、自分を見失うことはないさ。」
「あなた、もしかして自分の口から言わなくて済んで、少しホッとしてません?」
「うるさい!ワシはもう山に仕事に行くぞ。」
「はいはい。じゃああたしは川に洗濯にでも行ってきますよ。」
いつもの口喧嘩を始めて、老夫婦は日常に戻っていく。
旅立った孫が、いつでも元気に帰ってこれるように。