社内で昨年生じた大きな問題への対策として、いろいろな改革が進んでいる。
が
頭のいい人が考えた改革案は、論理的には正しいのに、なにか間違っている感が尋常じゃない。
「改めるべきところはそこなのか?」
「審査や評価が、”ちゃんとやりました"という、責任回避の仕組みと化していないか?」
なぜそう感じるのか。それはこの改革を進めている人が「こうすれば、上手くいく仕組みだ」と言っているからだ。
違う。
改革を進める人はこういうべきだ。「こうすることで、私とAさんとBさんとCさんが、責任を持ってきちんと物事を判断できる体制になる。だから上手くいかせるために、こういう仕組みにしたい」
こうでない限り、すべての会議は単なる問題の先送りと化す。
箱に魂を込めないと、どんなに箱が立派でも、何の価値もないのだ。
ここまでは正論だと、自賛する。
が、これを表明するとき、まとめるとき、整理するとき、心の中の「怒り」が、私の判断を、言葉を、思いを歪める。
情熱と怒りは異なるものだ。危機感と怒りは異なるものだ。
怒りとは、物事が予想通りにいかないときに感じるストレスにすぎない。
予想するんだ、きちんと。
夢でもなく、絶望でもなく、現実を見据えて。
自分でなんとかしようとか、他人に任せようとか、そんな幼稚な極論も捨てて。
同じ思いを、同じ「熱」を持つ人たちと、知恵を持ち寄りつつ、お互いの間違いを修正しつつ、前へ進むんだ。
人生は短い。今の環境を嘆いているだけでは、あっという間に爺さんになっちまう。怒りに身を委ねているだけでは、あっという間に棺桶に入っちまう。
怒りを捨てよ。
いや、怒りをきちんと咀嚼して、熱に変えろ。信念に変えろ。
怒りがもたらす偽りの信念は、ただの妄執だ。
本当の信念とは、暖かく、明るく、周りを照らすものだ。
暗く、深く、煮えたぎるものであってはならない。
信念とは、もしかしたら悲しいものかもしれない。冷たいものかもしれない。そんな「誓い」を、私も心の中に2つ3つは持っている。死んじまった方々への約束だ。失われてしまったものへの約束だ。今は亡きものへの約束は、二度と撤回することはできない。(私があの世に行ったら、撤回して良かったのにー、と笑われることもあるのだろうけどねー(苦笑))。
私はそれは今でも守っている。
今の怒りも、きちんとそうした誓いにするのだ。そして、前向きに考え、行動し、光を照らすのだ。
人生は短い。どうせ生きるなら、暗く、深く、煮えたぎるものではなく、冷たく、硬く、明るく、前向きで、そして密かに熱いものを抱えてゆきたいものだ。