次回出演させていただく、
オフィスコットーネ「The Dark」
でもって、私にしてはほんとうに珍しいことに、母親の役をやることになった。
がっつりアラサー、母親の役なんていくら来たっておかしくないはずなのだが、私のイメージに母親的なるものがおそらくないのだろう、片手で数えて余裕で余るくらいしかやったことがない。
そして数少ないその母親役経験も、病んでたり死にかけてたりと健やかなものではなかった。
さーて今回の母親像はー?とサザエさんばりに愉快なテンションで脚本を開いてみたところ、
まあ、やはりというかなんというか、非常ーー…に、病んだ、平たく言えば、育児ノイローゼ、産後クライシス、そんな役どころだった。
うーん。私は、こう、「里帰り出産で久々に会ったママは優しかったし、すっかりイクメンと化した旦那のサポートのお陰で、幸せな新米ママライフを送らせてもらっています☆今日は義母さんにベビちゃん預かってもらえる日!骨盤マッサージとエステ、行ってきまぁす╰(*´︶`*)╯♡」
みたいな役はやれないまま、ママ役適齢期を終えてしまう気しかしないな。


しかし、よく考えてみたら、母親役、というものがひとつ女優の演じる役柄の中ではジャンルとして成立するほどによくある、ということは、これからもそういうキリキリ病んでる系ママ役は来得るよな、と思い当たった。
そう考えると母親というものの実感を、子どもを持たない私は、せめて手触りのある体験談として聴きたいな、今回の役柄のヒントという即物的なこととしても、単に経験談としても、という気持ちになり、取材というかたちで旧友であるのりちゃん(仮名)のおうちにお邪魔させてもらった。

のりちゃんは、私の中高時代の友人である。
演劇部で中1から高2の引退まで苦楽を共にした仲間で、フワフワした笑顔と時折見せる天然ボケがものすごく可愛い、とか書くと鼻についたぶりっ子みたいに思われるかもしれないが全くそんなイヤミなことはなく、ついでに言うなら同じだけ部活に時間を費やしていたはずなのにあっさり現役でいわゆる旧帝大に入ってしまったというハイパーな女子だ。ちなみに我が母校は学年内順位とか偏差値とかいっさい出ないのだが通知表の数値から察するに私はおそらく学年で下から10番以内だったはずだ。誰も聞いてないのに先に恥を晒しといて笑いに変えて誤魔化そうとするこの性質が昔からのものであることものりちゃんは知っています。

おうちに着いてベルを鳴らした。
反応がない。
ん?ここだよな?と不安になったところでドアが開いた。
出てきたのはのりちゃんではなく、旦那さんだった。
一度だけ会ったことがある。演劇部のみんなで集まった時、既婚組は旦那連れてこーいニヤニヤしようぜー、となったことがあって、その時に会ったのだった。自営で仕事されているのは知っていたけど、そうか、今日はご在宅か。じゃあ旦那さんの話も聞けちゃうな。やりーラッキーもうけー、と久々の再会に更にテンションの上がるハマカワ。

おうちに上がるとのりちゃんはそこにいた。
しかし、

「あっ、いらっしゃーい!ごめーん。授乳が始まってしまって。。。」

…おおおおおおおいきなり授乳!!!
いきなりママ業真っ最中!!!
ノーモーションで視界にママのタスクが、ママのカウンターパンチが、やって来られた。
当たり前だがひとの、母乳での授乳シーンなんて見たことがない。哺乳瓶での授乳なら従兄弟の嫁さまがしてるのを見たことがあるけど、血縁親戚関係のないひとの授乳に立ち会うのは、これが初めてだった。
ちょうどその時はお昼の14時前くらいで、のりちゃんのおうちの窓はすごく大きくて、ソファに腰掛けて赤ちゃんに授乳するのりちゃんの後ろから1月のゆるい太陽が射し込んで、なんだかその光景はすごくホーリーで、マリア様、なんて言葉が脳内をしゅんと掠めた。晴れた日の午後に授乳する母親たちはみんなあんな風に神聖な姿を見せるんだろうか?

真っ先に手を洗って、なんだか今見た光景だけでもうありがとう、母親を見せてくれてありがとう、みたいな一定の満足感を得ながらも、リビングに戻って話を聞いた。

のりちゃんは二児の母だ。年子である。
さっき授乳していた赤ちゃんが、いま3ヶ月の弟くん。
手洗いの最中、旦那さんに付き添われながらずっとはしゃいでいたのが1歳8ヶ月の長男くん、ということだった。
二人とも、のりちゃんに、あちこちがちょっとずつ似ていて、同じくらい、旦那さんに、あちこちがちょっとずつ似ていた。
どっち似?なんてよくある話だけど、どっちに似てるかはわからないけど、年子ふたりはよく似ていた。
この子たちも大きくなったら、お兄ちゃんに似てるね、えーやめろよ、兄貴に似てるとかさいあくだよ、はーふざけんなよ、こっちだってさいあくだよ、とかいうのかな、そんで夕飯の唐揚げのラス1取り合ったりとかな、ええな、なんて思ったりした。

のりちゃんの育児ライフのお話は、当たり前だけど、知らない世界の話だった。
衝撃的だったのが、
育児でもう、うわあああってなった時どんなこと思うの?という実に雑なわりに不躾な質問に対する答えで、

「こんなに頑張っても、なんにもならない、って思うことがある」

というものだった。
何がどう衝撃的だったかというと、

①乳吸うじゃん。寝るじゃん。子ども大きくなるじゃん。なんにもならない、ってことないじゃん。…ということくらい、のりちゃんは賢い、当然わかっている。わかっているのに、思ってしまう。気持ちの出す答えは「なんにもならない」である。暴力的なまでのホルモンの仕打ち。

②のりちゃんは賢いが、努力の人でもある。うちの母親に、懇談会の帰りに「のりちゃんのおうちはいつがテスト前だかわからないってよ!そのくらい毎日勉強してるってよ!」と言われ、うへーのりちゃんすげえな、と思った記憶がある。就職してからは外資系だったため昼夜逆転のスカイプ会議、フレックスと言う名の夜間勤務、いわゆる激務をこなしてきたということも聞いていた。それだけ頑張り屋ののりちゃんをして「頑張ってもなんにもならない」と言わしめる子育てヤバい。

という主にこのふたつだった。
のりちゃんよ…なんにもならなくなんかないよ…あんたすごいよえらいよ、頑張ってるのは旦那氏もたぶんすごくわかってるよ…全部ホルモンのせいだ…と、JRのスキーの広告みたいなことを思ったのだが、そんなことはのりちゃん本人が一番よくわかっているのだ。

「つらい、しんどい、枕に顔を押し付けてうわあああああって絶叫しながら、久しぶりに飲みに出かけた旦那に泣きながら電話して今すぐ帰ってきて今すぐ、って声荒げながら、これ全部ホルモンのせいなんだ、ってどこかでわかってて、すごく孤独」

と、のりちゃんは言っていた。
ホルモンが孤独に直結するだなんて、思ってもみなかった。脚本読んであれこれ妄想していた私の想像力なんて、これまじでただの屁だな、と思った。
しかし屁でも出ないよりは役に立つ屁であるはずなのだ。屁は屁なりに話を聞いて、考えたい。他にもどんどん聞いてみた。


授乳のせいで乳首から血が出ること。
3時間連続で寝られたらラッキーなこと。
「泣いてるんだから死んでないわよ、大丈夫」と実母に言われて気が楽になったこと。
食べ物を栄養第一で選ぶようになったこと。
旦那が居ない日の過ごし方。
乳がカチコチになって「頼む!!吸ってくれ!!」と子どもに懇願したくなったこと。


どれもこれも、「まじかよ」とか「うへぇー」とか偏差値の低そうな相づちしか打てない、そういう話だった。
今回の作品に活かせそうな話を、とはもちろん思っていたけれど、想像も出来なかったような(それは私の人生経験という意味でも、のりちゃんの人柄という意味でも)話ばかりで、どの話も私の知らない世界を教えてくれるばかりで、最終的には私はただただ偏差値の低い相づち打つマシーンと化していた。

旦那さんはこう言っていた、

「本当はこうじゃない?と思うことがあっても、うちの平和のためにならないかなーと思ったら、言わない。その方が結果として、幸せだから」

旦那氏。いい男じゃないかー!!!株が爆上がりした瞬間である。
家族、というものが本来他人であるはずの男と女で作り上げていく世界一ちいさくて新しくてクローズドな社会なのだとしたら、そうだよね、平和は1番の正義になるだろう。平和のための戦争、なんて、どっかの大きい社会がやるもんだ。


稽古へ向かうため、おうちを後にする。
次男くんはのりちゃんに抱っこされている。
長男くんは旦那さんに抱っこされている。
実に人懐っこい、ちょっとひょうきんな長男くんが、旦那さんの腕の中で一生懸命、「バイバーイ」をやっている。
あのちっこいもみじ饅頭みたいな手も、いつかそれを握っている旦那さんの手、みたく、大きくなるのだろう。
なんかもう、育児すげえなぁ、と、またしても偏差値下がり、これ以上は測定不可能になっちまうよなぁと思いつつ、「バイバーイ」を、私もやる。
「またねー」と付け加えてみる。
長男くんは、まだ、「またねー」は、言えないみたいだ。
次に会うときに、君は「またねー」って言えるのかもしれないなぁ。

私は母親を演じる。どんなにキーキーした産後クライシスを演じようとも千秋楽が終わればなんでもなくなる。
しかし、しかしである。
目の前にあるこれは延々とつづく生活のひときれにすぎないのだ。なんという連綿たる暮らし。明日も明後日も明々後日も、のりちゃんは母親なのだ。

のりちゃん、あなたはすごいことをやってるよ、と、人類史上に現れた何億何兆何億兆の母親たちをのりちゃん1人に重ね合わせて、勝手に胸をいっぱいにしながら、また来るね、とただ迷惑かもしれない結び言葉でのりちゃんのおうちを後にした。


のりちゃん、ありがとね。
もしいつか私が役ではなくリアルに母親になるようなことがあって、その時「どんだけ頑張ってもなんにもならねええぇ」って泣くことがあったら、「そこ私も通った道だぁ」って笑ってもらいに行こうかな、なんて、あるのかないのかわからない未来のことを、思いました。