新関東大学準硬式野球連盟 創立40周年祝賀会 | 笑顔があればなんでもできる!!取手のハマジ、角田善政ワクワクブログ

新関東大学準硬式野球連盟 創立40周年祝賀会

新関東大学準硬式野球連盟の創立40周年祝賀会が大盛会に終わりました。

 

東京都市大学(旧武蔵工業大学)の食堂で開催され、新関東リーグらしく手作り感満載ですばらしい祝賀会でした。

 

学生役員たちが主体となって行動・運営出来るのが大学準硬式野球連盟のいいところ。

 

 

そこにOB理事も加わって一緒にサポートすることによってすばらしい祝賀会になりました。

 

私は開催前になかなか携わることが出来ませんでしたが、こんな華やかな会で司会という役を務めさせていただきました。

 

私が連盟に携わって19年ですから40周年という歴史は偉大なものであり、私の知らない伝承やエピソードを知る機会にもなりました。

 

今では硬式野球として首都大学リーグで大活躍している桜美林大学もかつでは新関東大学準硬式野球連盟が発足でありました。

 

OBの方からの話を聞くと、かつては連盟加入を目指してテニスコートの一角を借りてティーバッティングをし始めたところが出発点とのこと。

 

それからバイト代で稼いだ個人収入をはたいて連盟に加入したのか、後々に全日本選手権大会で優勝するチームへと発展したとのことです。

 

かつて新関東リーグで全勝優勝を何年も持続し、リーグ戦81連勝を遂げていた桜美林大学の連勝記録を止めた投手は、まぎれもなく・・・

 

私です(笑)

 

そんなエピソードを嬉しくも、プレゼン資料で差し込みしていただいたことにビックリし、感動しました!ありがとうございますm(._.)m

 

関東学連の理事長が来賓挨拶で述べてくれた通り、「準硬式野球」という世界の大きな特徴は文武両道であり、学生主体の運営スタンスです。

 

特に新関東リーグはそれが進んでいます。

 

長文になりますが、私が大学4年生のとき、大きな出来事がありました。

 

私が現役で大学野球リーグに携わっていた頃、運営体制は我が母校のOBであるT氏が握っている状況でした。

 

T氏の言っていることは正しいです。

 

正論だし、理想ですが、現状の組織体制には心愛っていないということは当時の私にも分かりました。

 

学生役員はもちろんのこと、他のOB理事との関係性も乏しく、「組織」として機能していない、いわば独裁者的な存在に思えました。

 

確かにその人の言うことをやればしっかりした運営体制は保てていましたが、内部にいる人間は豊かであらず、今で例えるとブラック企業という例え方が近い状況でした。

 

自分は、T氏には大変お世話になっていました。

 

有給とってまで市や教育委員会への後援依頼を一緒に提出しに行ってくれたり、仙台での全国大会出場が決まった後に旅の行程や手配にパニックしていた自分に丁寧に段取りを教えてくれたり、そうやって身を削ってアドバイスいただけたからこそ自分はやがて、連盟の委員長として大会運営の指揮をとったり連盟遠征の予算立てからプラン、段取り、会計とすべてを総括する役まで出来るようになりました。

 

大学3年生、全国大会に関わるエピソードは忘れもしません。

 

全国大会予選会で格上の日本大学本部にサヨナラ勝利をし、仙台への全国大会の切符を手にしました。

 

その後、練習中に怪我をしてしまい、足にブドウ球菌が入り手術をすることになり、そんな状況でも秋のリーグ戦委員長として授業の合間を縫っては足を引き吊りながら新聞社へ後援依頼をしに行き、球場の使用料を支払いに行き。

 

留年をかけた大事な前期試験も控える中、仙台への大型バスの手配や宿泊、弁当、タクシー、保護者への依頼文などすべてを段取りしました。

 

なんとか苦しい時期を乗り越え、リハビリにより全国大会開催1週間前にようやく医者からゴーサインが出て。そして乗り込んだ仙台、初戦。

 

松山大学に延長までもつれましたが、2点を失い迎えた10回裏の攻撃は自分からでした。

 

監督であるT氏は打席に入る前、私を呼び止めこう言い放ちました。

 

「悔いのないように思いっきり振ってこい!」

 

絶対に負けなくなかった。

 

こんなに辛い思いをしてたどり着いた全国大会のマウンド、そしてこのチャンス。

 

血がみなぎりました。

 

かつてない集中力が宿りました。

 

相手ピッチャーが持つボール、それだけしか見えなかった。

 

初球を思い切り振った。


 

鋭い打球は一二塁間を抜けただけではなく、ライトも後逸して二塁打へ。

 

あの時のT氏が自分に言ってくれた言葉は一生忘れません。

 

そんな、感謝の気持ちも強く持っています。

 

しかし、学生役員がT氏の言いなりになって連盟を支配されている環境には、日に日に不満が膨らむばかりの状況でした。

 

そして2003年7月24日、とうとう自分の堪忍袋が切れました。

 

T氏に対して、正確な言葉までは覚えていませんが、「もう、自分たち学生で運営しますので携わらないでください!」のようなことを強く言ったことを覚えています。

 

その出来事以降、T氏は連盟に携わることがなくなり、自分とお会いする機会は極少しました。

 

私は、大学を卒業した後も理事として携わり、自分が放ったその言葉に責任を取ることも意識しながら活動して今に至っています。

 

当時はT氏が連盟に携わらなくなったことによる 損失も大きかったと感じています。

 

平塚球場という目玉の球場を確保できていたものもT氏のおかげといっても過言ではなく、それがなくなってしまいました

 

しかし、あの一言で連盟の歴史は変わり、連盟が良い方向に進んでいると私は今でも思っています。

 

OB理事に依存せず、学生役員がみんなで協力し合い、自らが計画をもって運営をするようになったので、関東学連でも活躍して大学卒業後も連盟に理事として携わる若手理事が飛躍的に増えました。(かつては私が理事に携わる前は20歳代の理事はいませんでした)

 

かつては委員長一人に任されていたことが、組織として知恵を出し合い、リーグを良くしていこうという思いが各大学で生まれるようになったし、またOB理事も協力しながら互いに仕事を持つ中で協力しながらリーグを支えようするようになっりました。

 

これが、本来の組織としての姿だと、私は思っています。

 

しかし、私は今でも思います。

 

T氏を嫌いなわけでもないし、もう会いたくないって思ったわけでもないです。

 

全国大会のときに監督を務めていただき、その人がいたからこそ自分は輝けた、そんな思い出もある大切な方です。

 

私は今でも、その大先輩が築いてきた功績を越えることは出来ていません。

 

21歳の私は44歳の大先輩にそんなことをしてしまいました。

 

ですが、大学4年で決断したその選択は、今でも間違っていたとな思っていません。

 

大学野球は学生が主役であり、社会人理事のためでもなく定性を保つためでもありません。

 

学生が成長する場を与え、結果問わずに様々な経験を養う場てあって欲しいです。

 

私がその決断を下して連盟として失ったことは多々あったかと思います。

 

たとえば、毎年平塚球場で公式戦が行えていたことが無くなったこととか。

 

ですが、その決断によって得たものはそれ以上あります。

 

まずは、その他の理事の方が眠っていたものが目覚めたかのように助けてくれたこと。

 

そして、学生たちが自分たちでなんとかしなきゃと感じて主体性を持ってリーグ運営に携わってくれていること。

 

形が良いか悪いかなんて関係ないと思います。

 

大切なことは携わっている人たちが目的意識を持って活動出来る環境作り。

 

そういう意味で、本当にすばらしい創立40周年祝賀会が開催されました。

 

16年の月日が経ち、その先輩は今年で還暦を迎えます。

 

いつか再会するかと思っていますし、いつか再会したいと思っています。

 

それが近々になるか、何十年後になるかは分かりません。

 

簡単にいくようで、同士のプライドが邪魔していることも、これまた男の人生なんだと思います。

 

いつかは・・・・・・って。

 

 

あと、最後にもう一つ申し上げます。

 

冒頭の黙祷にありましたが、会長であり多摩美術大学の川崎さんが5月に亡くなられました。

 

自分が思い入れのある大学4年生のときに北信越遠征に同行していただいた団長でもあります。

 

大学は違うのに、会うたびに成長や活躍をご配慮いただき、今でも優しいお言葉が耳に残っています。


新関東の発展を心から望んでいる方の一人でした。

 

天国からのご期待を胸に受け、これからも準硬式野球の繁栄に尽力させていただきます。