苦難は乗り越えるためにある
私の母は変わった人で、苦難がある度に喜び盛り上がっていました。特に私に苦難が起こるとニコニコしながら言います。
「良かったじゃない! これで真剣にやる気になったでしょ!」
私はそれを聞く度にキョトンとします。確かに理論的には、苦難があるから乗り越えようとして頑張るのです。が、そこに行き着くまでは、相当悩み苦しみ葛藤するのです。
ほとんどの人がそうでしょうが、苦難にぶち当たった人なら、その大変さについて、理解してくれると思います。苦難に遭った当の本人は必死なのです。
どうして、母がそんな人間離れした考えを持つにいたったのでしょう? 皆さんわかりますか?
直接彼女に聞いたことはないので、あくまでも推測になってしまうのですが、彼女は幼い頃から苦難の連続だったからなのです。ただ、命が無くなりそうなレベルの苦難ではないのですが、その数はとてつもなく多かったのです。
母は幼い頃、ある日事故で片方の耳が聞こえなくなったのです。そのことと体が弱いことで、普通の学校には行けなかったようです。そのため、母は親から嘆かられ、周りの人からはバカにされて育ったのでした。
そんな辛い経験を小さい頃からしていたのですが、とても負けん気が強くなると同時に、困った人と出会ったら、自分を見るようで、ほっとけなくなったのです。とにかく、徹底的に手取り足取りお世話を始めます。
そのおせっかいな性格は一生変わりませんでした。
母は元々ファッション・デザイナーになりたかったようです。
高知県出身だったのですが、土佐高女という女学校を出て、さっさと大阪に渡り、ファッションの世界に入りました。
ところが、母の将来を案じていた両親が、落ち着かせるために強引にお見合をさせたのです。結局強い強い両親の薦めから、同郷で自衛隊一期生だった父と結婚しました。
優しい母は、小さい頃から体のことで、悩ましてきた両親には逆らえなかったのでしょう。
結婚してから母の更なる苦難の道は始まりました。
父は、自衛隊に勤めていたのですが、アル中で体を壊してしまい、ほとんど働けず収入もない状況になってしまいました。それでも、亭主関白だったため、母が外で働くことを良しとしませんでした。既に姉と私は生まれていましたので、我が家は経済的に追い込まれていったのでした。
なんとか外で働かないで収入を得る方法はないかと考えた母は、近所に捨てられていた新聞を拾ってきては切って袋を作り、それを野菜市場に包装紙として売り込みに毎日行っていました。
また、元ファッション・デザイナーでもありましたから、人のために服を縫ってあげることで、ささやかな収入を得ていたのです。所謂内職というやつです。
父のアル中はなかなか治らず、体が弱く仕事に行けないのに、毎晩酒を飲んでは、母を殴る蹴るという家庭内暴力(DV)を続けていました。
殴り疲れた父が寝てから、鼻血とあざだらけになった母は、怖くて泣きじゃくる姉や私を抱きしめて言いました。
「泣かなくてもいいんだよ。いつか必ずお父さんも改心し、家族円満に暮らせる時が来るから。いいか覚えておきなさい。苦難は乗り越えるためにあるんだよ。苦難があるから、人は成長できるのよ」
あれから40年以上経ちます。
母は10年以上も前に脳梗塞で還らぬ人になりました。しかし、その間母は、病苦、経済苦、家庭不破等々、あらゆる苦難を乗り越え、姉と私に言った通り、父を改心させ、その後はとても幸せな人生を歩みました。
親子ながら、母のその見事な逆転勝利の人生を振り返った時、彼女の口癖だった「苦難は乗り越えるためにある」が、身に染みます。